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一の宮
更新日: 2012-02-22 (水) 21:36:24 (4409d)
概要
阿蘇中岳(山上神社)の上宮に対し、宮地の社殿を下宮と称し、いつの頃からかその地を宮地と呼ぶようになりました。
『延喜式神名帳』には、「健磐龍命神社」、「阿蘇比咩神社」、「国造神社」の三つが記載されています。
古代から阿蘇神社は肥後国一の宮(地名もそれにちなみ一の宮町)といわれ、崇敬を受け中世には広大な社領を有しました。
そして、火口の変動のつど、阿蘇神社の神は朝廷から位が授けられていきます。
社領は阿蘇大宮司の領主支配によって阿蘇郡を越え、上下益城郡、宇土半島まで拡がりました。
その後、島津の攻略にあい、豊臣秀吉の九州征伐に際して社領を没収され、幼い当主は殺されました。
しかし、慶長6年(1601)に領主となった加藤清正に社地が寄進され、神主家として再興されました。
後に、肥後藩主として入国した細川家も社領を寄進し、社殿の造修も行いました。
そして明治を迎え、阿蘇地方一帯の農民の厚い敬神の心に支えられ明治4年(1871)に国幣中社、明治23年(1890)に官幣中社、大正3年(1914)に官幣大社に昇格しています。
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