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下野狩

下野狩と阿蘇の野焼き

下野狩(しもののかり)は、阿蘇大宮司家により執り行われた神事的演武の巻(まき)狩(がり)です。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝の富士の巻狩の手本となったと伝えられており、天正七年(一五七九)に阿蘇氏の没落と共に廃絶しました。
 下野とは、現在の坊中(黒川)からの登山道、南阿蘇村下野からの登山道と北外輪山麓の黒川に囲まれた広大な原野沼沢(しょうたく)地です。狩場は永草の「鬚捊(びんかき)の馬場(ばば)」、「中の馬場」、「赤水の馬場」と3つに分かれています。
下野狩がいつから行われるようになったのかは明確ではありませんが、始めは農作物を食い荒らす害獣を駆除し、開拓神(国造神社)に贄(にえ)として捧げる小規模な贄(にえ)狩(かり)でした。しかし時代が下がるに従い、阿蘇家の勢力も拡大し、狩の方法も進化しました。
狩は武士団の軍事訓練の一環として、諸将を招集し、勢子(せこ)の動員から隊の編成、狩場での諸将の指揮振りを見る等、大規模なものとなりました。
 狩の前日には、数千人の勢子隊を以って、広範囲の獣類を狩場に追い込み、夜はかがり火を焚き囲い込みます。当日は狩場の風下から火引き縄を馬上から引回し、大宮司を始め諸国からの大勢の見物人の前に、獲物を集めるように行動します。大宮司の眼前で獲物を射止める事が諸将にとって最大の名誉であったようです。
このように狩に火を利用するようになると、天候気候から見て正月の狩は困難で、自然と二月末から三月初め頃の狩に決まったようです。防火帯については史料には何も記載がありませんが、おそらく輪地切り等は、前もって行われていた事でしょう。
 時代の変遷とともに、下野の狩は行われなくなりましたが、阿蘇の野焼きは、連綿として一千年以上続けられ、現在のこの美しい原野景観を保って来たといえます。

 阿蘇家には、この下野狩の様子を描いた3幅の「下野狩図」が残されています。本来は6幅であったことが箱書により分かります。軸本の墨書銘に、貞(じょう)享(きょう)元年(一六八四)七月朔日江戸で表具とあり、同二年三月二日、藩主細川綱利(一六四三~一七一四)が阿蘇宮(阿蘇神社)に寄進したものです。平成十九年三月には市の有形文化財に指定されました。
画家は、江戸時代前期に狩野探幽(かのうたんゆう)に学び肥後狩野派の祖とされる薗(その)井(い)守供(もりとも)(一六二八~九○頃)で、代表作として狩野派正統の優れた画技を見せています。
 下野狩図は、狩の様子を描いた貴重な資料であると共に、阿蘇の鳥獣に関する最も古い記録でもあり、獲物の種類までがはっきりと判別できるほど精巧(せいこう)に描かれています。猪(いのしし)・鹿(しか)・兎(うさぎ)などのほか、現在では見られない熊(くま)(ツキノワグマ)や狼(おおかみ)(ニホンオオカミ)も描かれ、かつて阿蘇に生育していたことを示す重要な資料となっています。

写真

資料

参考

~文化財を大切に~  みんなで護ろう文化財



カテゴリ : 文化・歴史
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