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五足の靴

五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た」
明治40年(1907)、新詩社「明星」の与謝野寛(鉄幹)、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の若き詩人たちが九州の旅に出かけました。
この5人連れによる紀行文が「五足の靴」という作品です。
一行は広島の厳島を皮切りに、長崎、天草から長洲に上陸、熊本を経て阿蘇へ足を延ばします。夏目漱石の「二百十日」もそうですが、馬車にゆられての阿蘇行でした。「栃木」を過ぎたところで馬車を降り、「垂玉温泉」まで歩き、1泊しました。翌日いよいよ阿蘇登山です。今でこそ阿蘇駅からが登山の主要コースになっていますが、当時は立野から南郷谷沿いに登っていくのが普通だったようです。噴火□見物は初めてのことだったのでしょう。「あの灰の噴き出す穴を見に行くのかと思ふと何となく恐ろしい」と正直な感想を述べています。
そして目のあたりにするや、率直に心情を吐露します。「昔の人は心から自然力に驚嘆した。火を崇め、山を祭った。」下山では道に迷ってしまいます。「案内者は恐縮して兎のように路なき所を駆け廻って路を探す」とあって、一行もまた「漱石氏が『二百十日』式の、蓬々たる茅生の間を歩むこと殆んど二時間許りであった」と漱石先生に似た体験をしており、若き詩人たちの困惑顔が目に浮かんでくるようです。「五足の靴」から25年後の昭和7年(1932)、与謝野寛(鉄幹)は妻晶子を伴って阿蘇を再訪しました。
このときの宿泊先は内牧の永田巳平氏宅(現・旅館蘇山郷)です。ここの「杉の間」は与謝野夫妻も感嘆した1本の大杉でつくられた見事な部屋で、今も宴会などに利用されています。庭に2人の歌碑があります。

  • 霧の色ひときは黒しかの空にありて煙るか阿蘇の頂
    与謝野寛
  • うす霧や大観峰によりそひて朝がほのさく阿蘇の山荘
    与謝野晶子

昭和32年(1957)には古井勇も大観峰に歌碑建立のため訪れました。

  • 大阿蘇の山のけむりはおもしろし空にのぼりて夏雲となる

吉井 勇

 

参考

阿蘇の達人 ~阿蘇をつくった神々と歴史~

カテゴリ : 文化・歴史

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