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使役

概要

太古の牛骨が県内で初めて発見されたのは昭和31年5月のことで、緑川流域で奈良時代の人骨と一緒に出土しました。およそ1頭分ほどの骨が全量、住居跡と思われる遺跡のすぐ近くに残されており、これによって遅くとも奈良時代には牛が家畜として飼育されていた事が立証されました。
10世紀に書かれた『延喜式(えんぎしき)』には肥後の国に名馬の産地として全国的に名を馳せた二重馬牧と波良場牧があったと記されています。これと奈良時代に出土した牛骨を総合して考察すると、すでに8世紀以降、阿蘇では馬と牛の両家畜が放牧されていたと推察できます。
平安時代末に書かれた『阿蘇文書』には、阿蘇社がこの時代、皇室領の荘園として租税などを中央に送った報告書「阿蘇大宮司宇治惟宣解」が収録されています。このなかに「牛鞦二具・保延五年三月十日 米連返抄内」とあり、保延5年(1139)に米や絹以外の上納品として牛に着ける(しりがい)2組が贈られていたことがわかります。鞦とは牛馬の尾にかけて車の轅や鞍橋を固定していた道具(緒)のことで、牛馬を使用する際の実用品でした。これは当時の阿蘇社両内ですでに牛が使役されていたという何よりの証明です。
また、同書の「阿蘇社年中神事次第写」には阿蘇社の年間祭礼が詳しく説明してあり、これを読むと、室町時代以前すでに牛が農耕に使役されていたことがうかがい知れます。阿蘇社の年間祭礼のうち「摂社年祢社」の神事は本社の中では行わず、その年の当番となった7ヶ所の(はふり)の家を次々と移動しながら7日間にわたって営まれていました。祭の最終日の亥の日、年祢祝宅では「田作ノ祭」が催されていましたが、ここでは神々らの田植えの模様が再現されます。溝さらえ役、鍬の柄役、籾の種役、苗の役、畦の役などの配役が決められており、「牛ニ成事四太夫役、牛ニ水飼五太夫役」と祝四太夫が牛の役に、五太夫が牛に水を与える役に扮していました。一連の田植え作業の描写の中に、明らかに牛が登場していました。
この「阿蘇社年中神事次第写」は室町時代の社家方の記録とされていますが、祭りの内容はそれよりさらに古い時代のものでした。
さらに読み進むと、牛馬が物資の運搬に用いられたことも分かります。応永11年(1404)の「肥後湯浦郷坪付山野堺等注文写」には郷内の村々が負担する租税や労役についての説明があり、そのなかに「木(柴か)二十駄」「炭篭五駄」「積木十駄」と記されています。
※「駄」とは牛馬に積む荷の単位です。

阿蘇文書

このほか、『阿蘇文書』には牛の使役に関して次のような記述もあります。
領主方の直営地を耕作する時は、農家から労役を提供しなければならなかったが、それには牛を使った耕作も求められていました。耕作時に「すき一ツ」持参が4ヵ大村、「まんか一ツ」持参が17ヵ小村。「まんか」(馬鍬)とは「馬把(まが)」のことで、小村の馬鍬(馬把)に対し、重い負担とみられる大村の犁は牛を使って耕作するためだったとみられます。当時の湯浦地区は低湿地が多く、農地の開発が進行中でした。このため、粘りの強い牛の力で土地の荒起こしが行われたと推測されます。馬把労役を負担していた小村でも、犁の使用には牛が断然有利であったと見られるので、湯浦の村々では「牛馬併用」または「牛による耕作」が少なくとも村の数(21頭)だけは行われていたと思われます。

江戸時代、財政の窮乏に陥った全国の諸藩は、その立て直しを図ろうと懸命でした。
年貢の増強を目指して領内富強の名のもとにさまざまな制度を整備、これによって産業振興を推し進めようとしました。当時の畜産振興策はどちらかといえば、牛よりも馬の方に重点を置く傾向がありました。そのような中、肥後藩では寛永年間(1624~1644)に、すでに牛馬購入資金制度を導入していたと言われています。
また、天保元年(1830)頃の記録によれば、農産物の集散地として当時栄えていた隈府上町には、これを運搬するための駄馬やその馬寄せ広場が設けられていました。

近代

明治5年の『農務顚末・農商務統計表』によると、熊本県内には4万頭余りの牛が飼われており、そのうち雌58%、雄は42%でした。現在の状況と比べて雄の割合が高いのは、当時は種牛としてよりも、その殆どが農耕用や運搬用として飼育されていたからです。体格に優れた雄牛は足腰が強く、とくに湿田を耕す場合などには最適でした。
一方、雌牛も当時は子牛生産率が約17%と低く(現在は85%程度)、もっぱら農耕や運搬などの使役が主体でした。
明治37年の『阿蘇郡是』(=阿蘇郡市の産業経済の実態調査)では、阿蘇郡市内の牛の飼育頭数は約14,000頭でした。これは、当時の馬の飼育頭数16,000頭(平成9年現在約1,300頭)より2,000頭少なくなっています。飼育牛のうち約9000頭(63%)が雌(現在約10,000頭)で、農耕用として飼われていた雄は約5,000頭(52%)。この他種牛用の雄が約200頭(現在は熊本県の集中管理で約30頭)いました。雌約50頭に1頭の割合で種牛を飼育していたことになりますが、これは、当時は自然交配の時代で、多くの種用雄牛が必要だったためです。

子牛・子馬

ちなみにこの当時、9,000頭の雌牛から生まれた子牛の頭数は約3,400頭で、その生産率は39%。先の明治5年の約17%と比較すると、30年の間にかなり向上していることが分かります。また、子馬の生産も約1,900頭で、生産率は14%(現在60%)。現在の技術水準と比較するとかなり低い水準でした。

カテゴリ : 生活
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