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十二神系図と神の館

概要

阿蘇市一の宮町に鎮座する阿蘇神社は、古代以来の由緒ある名社であり、十二の神々が祀られています。現在の社殿・境内は近世以来の規模縮小の影響を受け付けていますが、本来最も完成された姿として存在していたのは中世の時代であり、その意味で阿蘇社が最も栄えていたのは中世であったと言えます。
この構成は12世紀末にはすでに存在していたと推定されます。ところが、10世紀はじめに成立した「延喜式」には、阿蘇の神は「大一座 健磐龍命神社」、「小二座 阿蘇比咩神神社(あそひめかみじんじゃ)国造神社」の三神・三社しか挙げられていません。この間の三神と十二神の差はどのようにして生じたのでしょうか?

阿蘇十二神

「延喜式」の三神がその原点ですが、「阿蘇宮由来略」などでは、図のような神系図として説明されています。この図は、健磐龍命と妃神を一宮・二宮とし、妃神の父母を三宮・四宮とし、この一・二宮系と三・四宮系の諸神が、基本的には男女一対の夫婦神として構成されています。そして、現世の大宮司・権大宮司や神官と呼ばれている上級社家がちは、これら神々の子孫とされているのです。
しかし、この神系図は、その内部に基本型の破綻している部分があり、数次にわたり追加修正された過程が推測されます。そしてこのことは、神の館である神殿も数次改変・増設を必要として完成したものと考えざるを得ません。
最も新しい追加は、神殿の配置や呼称において異なっている十一宮と十二宮です。その前の追加は七宮から十宮です。男女1対神としての組み合わせ方が不自然であるからです。そして更に三神から六神への増加の段階が結果として推定されます。

第1次の増加は二宮の父母神の草部吉見神夫妻である三宮・四宮の追加です。これは阿蘇谷に対し南郷谷の神を祭神に加える事が目的であったが、この時、四神三殿や五神三殿より、六神三殿の男女一対神としたほうが神の性格上納まりが良いことで整えられた型と見られます。

第二次の増加は、阿蘇社周辺の靍原社・矢村社の神々が加えられたとみられるが、この神々は祝(神官)の山部氏ら宮地周辺の神々でした。両社の神は重複しているものを除いて三神が取り上げられたが、男女一対神とならないのでもう一神追加した形となりました。結局一宮から十宮まで五組の男女一対神が生じ二神一殿では五殿を必要として横広がりとなり、主神の威儀が強調できない。そこで主神一宮・二宮を各一殿、その両脇に男神のみの四神一殿、女神のみの四神一殿と、軽重を配慮した新しい神殿配置が生じました。

第三次の増加は、本来国造神が備えていた大宮司家の始祖としての性格と阿蘇谷北の小国地域との結び付きの分割です。従来の国造神五宮・六宮には大宮司家直接の始祖惟人神夫妻を定め、国造神は十一宮となった。しかし、十二宮に定められるべき小国系、雨宮媛命の座は綏靖天皇御霊とされる金凝神に当てられ、最後の神に皇統(天皇家系譜)との接点を加えるという修正を行い、社殿は内に向いて相対する形として完成しました。

参考

阿蘇ー自然と人の営みー

カテゴリ : 文化・歴史
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