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品種改良

概要

阿蘇郡一の宮町(現阿蘇市一の宮町)の県立阿蘇清峰高等学校(現阿蘇中央高等学校清峰校舎)には、肥後のあか牛改良の祖となった「ルデー号」の骨格標本が保存されています。
ルデー号は明治後期から大正にかけて、阿蘇郡産牛馬組合の種牛として数々の名牛をを残したスイス産の雄牛です。体高168㌢、体重1,500㌕。褐白斑(かつはくはん)の毛色をしており、おとなしく飼養に適した性格でした。
肥後のあか牛誕生の背景には、このルデー号と阿蘇清峰高校の前身の阿蘇農学校、そして阿蘇郡産牛馬組合の人々の大きな尽力がありました。それは、幾多の苦難を乗り越え維持されてきた阿蘇の放牧、草原の歴史と大きく関係します。

七塚原種牛牧場の設置

江戸時代から明治初期に至るまで、家畜の品種改良や増殖については農家の自主性に任せられていました。そのため、組織的な取り組みは全くと言っていいほど行われず、農家の雑駁な技術と知識のもとで交配が繰り返されていました。明治当時の在来牛の体型が極めて貧弱であったのも、毛色が種々雑多であったのも、いわば努力と経験の不足からでした。

在来牛

在来牛の体型について『阿蘇郡畜産組合三十年小史』には次のように記載されています。


美点としては、体質が強健で性質が温順であり、よく粗食に耐え、動作が敏活で使役に適す。その反面、体格は矮小で、成熟した雌においても体高三尺七寸(111㌢㍍・現在の発育目標値132㌢㍍)内外、雄では四尺八分(122㌢㍍)前後にしか過ぎず、晩熟で特に後駆の発育が悪く、臀部が尖り、せん骨の傾斜が急で、背線不正、飛節はX状である。


このように在来牛が小格で晩熟な点は、だれの目にも明らかでした。加えて、体の各部に改善を要したため、熊本県ではついに外国籍との交雑を企画しました。
明治22年、全国で初めての大規模な農事調査が実施され、畜牛改良方針の不安定さが指摘されました。これを受け、当時の農業政策の中枢にあった農商務省は同33年1月、種牛改良調査会を設置。わが国の畜牛改良に関する基本的問題を諮問して、畜牛改良の大方針を確立する事になりました。
どう調査会の答申の結果、畜牛改良に用いる外国種としてスイス産のシンメンタール種が選ばれました。理由は

  1. 乳肉兼用種としても乳牛としても、また和牛の改良種としても好適。
  2. その生産国が日本の地勢とよく類似している。
  3. 調査会メンバーの1人、ヤンソン委員が過去にドイツにおいてシンメンタール種輸入の好成績を例証した。
    などです。

政府は早速、同年3月「種牛牧場官制」を公布。これにより5月、広島県比婆郡に在来牛と外国種牛の品種改良などを行う七塚原種牛牧場が開設されました。同牧場は在来牛の改良や繁殖、育成、配布、伝習などとともに、スイスから購入したシンメンタール種ほか22頭の外国種牛を使って新たな品種改良制作を推進。その後、35年から「種牛払下規定」を設け、ここで繁殖された種牛たちは全国各地へ供給されることとなります。県内で初めての外国種牛となるシンメンタール種「スイス号」も、この七塚原種牛牧場から明治39年頃、熊本県立阿蘇農業高校に導入されました。


※明治時代初期の在来牛の毛色は褐毛や黒毛、灰毛、虎毛などで、さらに褐毛でも淡褐から濃褐に至るまで種々雑多でした。

カテゴリ : 文化・歴史
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