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商工・観光

昭和30年代

昭和30年代初頭までに、日本経済は戦前の水準に回復し、それ以降あらたな経済成長の過程を迎えます。
昭和30年代は神武景気、岩戸景気、国民所得倍増政策の時期を含みながら、経済が極めてダイナミックに躍動した時期でした。「国民所得倍増計画」などの長期経済計画策定等により、全国的に積極的な投資行動が行われます。「投資が投資を呼ぶ」設備投資ブームによって、高度成長期へと突入していきます。この時期、阿蘇でもさまざまな設備投資が行われました。特に阿蘇登山有料道路・坊中線(昭和32年)やまなみハイウェイ(昭和39年)の開通など大規模な道路・交通などインフラ整備が進められました。
また、この時期は企業の生産力、個人消費が大きく拡大し、消費生活も高度・多様化します。「三種の神器」と呼ばれた家電製品が、このころから急速に普及します。庶民の余暇も増大し、観光・レジャーブームが起こりました。旧阿蘇町では、阿蘇山上の開発(阿蘇科学博物館、山上ロープウェイ等)や観光基板の整備(町営観光協会、ジャングル温泉の建設等)もあり、個人客に加え、職場単位などの団体客が詰め掛けるようになり、町は活気づきました。阿蘇温泉観光旅館協同組合は、このような時代を背景にこの時期発足しています。当組合は、これまで任意団体として活動していた阿蘇温泉旅館組合を母体とし、昭和28年に阿蘇温泉観光旅館協同組合として法人格を所得、昭和30年に内牧に事務所を構えています。以来、阿蘇を代表する旅館組合として、観光客誘致のための様々な活動を行っています。昭和30年代は、阿蘇町の観光が大きく発展し始めた時代でした。
商工業では、昭和29年の町村合併を契機に、阿蘇町商工会(任意団体)が発足しました。その後、昭和35年には町村における商工業の総合的な改善、発展を図り、国民経済の健全な発展に寄与することを目的とした「商工会の組織等に関する法律」が制定されます。それに伴い、昭和36年2月13日、特別認可法人の阿蘇町商工会が設立されました。阿蘇町商工会設立以来、金融、税務、経理、経営、労働、取引等多岐多方面にわたって事業者のための指導育成活動が行われました。
また、同年、商工会組合員の相互扶助の精神に基づき、組合員のために必要な共同事業を行うことを目的とする阿蘇町商工振興協同組合も発足しています。当組合は、商工会組合員に対する事業資金の貸付を主事業とし商工会組合員の自主的な経済活動を促進しています。このほか、農業を活かした経済活動も活発化します。赤水に農産物を主原料とする缶詰工場が操業、お土産としての高菜漬けの商品化が始まったのもこの時期でした。

昭和40年代

高度成長を続けてきた日本経済は、昭和39年10月から「40年不況」と呼ばれる戦後最悪の不況に見舞われました。しかし、昭和40年10月から回復に向かい、昭和45年7月まで30年台を上回る高度成長を持続します。この「いざなぎ景気」は、国民総生産の飛躍的増大をもたらしただけでなく、産業構造等を激変させ、国民の生活と意識を大きく変えました。その中で最も顕著な変化は、耐久消費財の普及と教育・文化・レジャー支出の増大でした。耐久消費財では、「新三種の神器」(3C)と呼ばれたカラーテレビ、カー、クーラーが急速に普及しました。
このような生活様式の変化を背景に、阿蘇町の観光客は増え続けます。昭和44年には阿蘇町の年間宿泊客が100万人を突破。観光産業は好景気が続きました。これに伴い、内牧温泉で大型ホテルや保養所などの施設が次々と建設されていきました。
また、阿蘇町観光協会が結成されたのもこの時期でした(昭和41年12月)。旅館、土産品、飲食、酒販売など、町内の約百店の観光関係業者で組織され、足並みそろえた効果的・大規模な観光宣伝ができるようになりました。
昭和30年代に引き続き、昭和40年代に入っても阿蘇登山有料道路・赤水線(昭和40年)や菊池・阿蘇スカイライン(昭和48年)など大規模な道路・交通などのインフラ整備が進められました。また、レジャー志向が強まっていく時代に対応し、町営ユースホステル(昭和40年)や阿蘇山人工スキー場(昭和44年)、坊中キャンプ場(昭和48年)、阿蘇くま牧場(昭和48年 現カドリードミニオン)など、さまざまな施設がオープン、観光要素が多様化し、阿蘇町の観光は大きく発展しました。
しかし、発展を支えた長期の高度経済成長は昭和46年のドル・ショック、昭和48年の第1次オイル・ショックにより劇的に終焉し、昭和49年には戦後初のマイナス成長を記録しています。また、高度経済成長の負の遺産として深刻な社会問題となったのが公害、環境破壊でした。阿蘇においても、昭和40年代後半に内牧温泉の湯量減少が問題となり、泉源保護のため集中管理方式が検討されたものの実現しませんでした。
商工業では、昭和43年、後継者育成、地域の総合的な改善発達を図ることを目的として商工会に青年部が組織されています。若手経営者の斬新にして、はつらつたる想像力と行動力を活かし、地域社会に広く貢献する活動に取り組んでいます。「阿蘇火の山まつり」の全身となる「びっくり夜市」をはじめ、様々なイベントを発案、企画しています。
また、この時期に町は、工場誘致条例(固定資産税の減免 昭和44年)を復活させ、日本オイルシール(現NOK)を誘致しています。阿蘇町初の本格的製造業の進出は町人口の流出に歯止めをかけるものとしておおいに期待されました。

昭和50年代・60年代

昭和48年のオイルショック以降、昭和50年代初めまで不況が続き、国内の観光にも影響が及びました。町内の宿泊施設もこの時期、宿泊客数が軒並みダウンしています。しかし昭和50年代半ばになると、外国産業や情報処理産業などのサービス業を中心に、国内経済は先進各国に先駆け回復します。
オイルショックによるエネルギー価格の上昇はエネルギー多消費型の「重厚長大型」産業に大きな影響を及ぼし、省エネルギーの機運が高まりました。また、産業構造面でも、第1次産業、第2次産業の比率が低下し、第3次産業の比率が上昇し、日本経済のサービス化が進行していきました。
経済のサービス化は、旅行などの教養娯楽やスポーツを含めた余暇活動の活発化が消費支出に反映されました。
そのような時代を背景に阿蘇の観光は阿蘇観光牧場(昭和56年)や阿蘇火山博物館(昭和57年)、阿蘇いこいの村(昭和59年)など様々な観光施設がオープンしました。また全国大阿蘇凧揚げ大会や大阿蘇航空祭、阿蘇の火まつりなど、大型観光イベントを開催、観光要素の多様化を図ったのもこの時期でした。
昭和55年は、前年の中岳噴火に伴う長期立ち入り規制、冷夏・長雨などの天候不順、近距離旅好化のレジャー傾向などにより、町内宿泊客が初めて50万人を割り込みました。ただ、それ以降、経済の回復、教養娯楽費の増大に呼応するように、宿泊客は増加していきました。
その後、日本経済は昭和60年のプラザ合意を節目としてバブル景気に突入することになります。バブル景気は宿泊客の増加にさらに拍車をかけています。昭和61年には宿泊客数が80万人を突破しその後も増加を続けました。団体旅行で大きなシェアを占める修学旅行についても、増加傾向が見られました。しかし、通過型観光地としての色彩が強くなるに伴い、阿蘇観光にも伸び悩みの影が見え始めるようになります。
商工業では、昭和53年に商工会に婦人部が発足(平成12年に女性部に改称)。女性の感性をいかした活動に取り組んでいます。また、この時期は大型店の出店が始まります。昭和54年には本町初の大型店、協同組合阿蘇ショッピングセンター「コアラ」がオープン、昭和58年にはニコニコ堂内牧店がオープンしています。
企業誘致が次々と成果をおさめたのもこの時期です。昭和59年には西武鉄道(阿蘇プリンスホテル・ゴルフ場の完成は平成2年)、昭和60年には富士プラント工業、三洋アルミニウム、昭和63年にはセコムと進出協定を結んでいます。

平成

平成に入り、バブル景気を背景に各地でリゾート開発が盛んに行われました。阿蘇町でも様々な施設整備が進められました。また、昭和50年代中期より増加に転じた宿泊客数は引き続き増加をみせ、平成2年には90万人を突破、平成3年には97万人に達しました。
しかし、バブル景気が崩壊すると、日本経済は「失われた10年」と呼ばれる長期不況に突入します。バブル期に華やかに登場した多くのリゾート地やリゾート型レジャー施設は、軒並み厳しい運営を強いられ、閉鎖する施設も少なくありませんでした。
こうして、昭和50年代中期より増加してきた阿蘇町の宿泊客は、バブル崩壊を受けて平成3年を境に減少を初めます。宿泊客減少の要因の一つに、修学旅行客の現象があります。修学旅行での航空機利用や海外旅行の解禁が大きく影響を与えています。修学旅行客の減少は、阿蘇町観光の大きな痛手となり、修学旅行客に代わる団体客の誘客の必要性が生まれてきました。
そのような情勢の中、外国人客(特に東アジア圏)の誘客に力が入れられるようになります。国も外国人客の誘客には力を入れ、「ビジット・ジャパン・キャンペーン」と称した観光キャンペーンが行われています。
国内の誘客に目を向けてみると、冷涼な気候と阿蘇の大自然を活かした「合宿の里づくり」を展開しています。阿蘇町ジョギング牧道、農村公園あぴか等が整備され、学校・実業団などのスポーツ合宿客が確実に増加しています。
バブル崩壊にともない、経済至上主義で発展を続けてきた戦後システムが崩壊するなか、ポストバブル、新しい価値観の模索が始まりました。旅行形態も団体客から個人旅行が主流となり、観光客のニーズも変化し、観光要素の多様性・独自性が求められるようになりました。このような変化に対応すべく、観光と地域産業の連携の必要性が高まり、町の基幹産業である農業と連携した観光が展開されます。
また、観光ニーズの大きな変化として、体験型観光志向の高まりがあげられます。これに呼応し、観光による自然環境の破壊などの弊害を克服し、自然環境や地域の伝統文化との共生を図るグリーン・ツーリズム、エコ・ツーリズム、タウン・ツーリズムの動きが全国的に見られるようになりました。
阿蘇でも、公益財団法人阿蘇グリーンストック、阿蘇ネイチャーランド、阿蘇町農村農業体験プログラム「ASOカルデラ学園」などが先進的な取り組みをみせました。平成16年4月には体験観光の総合窓口として、阿蘇グリーンエコツーリズムセンターが開設され、農業体験などを通して農村と都市の交流を図ってます。
商工業では、大型店の出店が顕著となり、平生4年にショッピングセンターみやはら内牧店、平成5年にニコニコ堂阿蘇店、平生6年にロッキー阿蘇店、平成7年にホームワイド阿蘇店、平生10年にしまむら阿蘇店、平成11年にショッピングタウン阿蘇(ホームワイド阿蘇店他)、平生15年にはスーパードラッグコスモス阿蘇店と大型店が次々と出店しました。大型店の出店は、個人商店を圧迫させた一方、消費の町外流出に歯止めをかけるとともに近隣町村を商圏に取り込み、町内の販売額を増大させることになりました。
大型店の出店や不況の影響で増えた空き店舗対策として、旧阿蘇町商工会は町と協力し、平成12年から空き店舗を利用した新規開業者に対し家賃の補助をする活性化事業を展開しました。これが新規開業の促進につながり、商店街活性の機運が少しずつ高まりをみせています。

参考

阿蘇町のあゆみ

カテゴリ : 文化・歴史
索引 :

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