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地方自治法

概要

昭和29年から3ヶ月をかけて行われた国指導の町村合併は、従来の町村を三分の一に減らし、足腰の強い地方自治を作ろうとするもので、戦後日本の民主化政策の終点ともいえる改革でした。従って政治による上意下達的性格が地域住民の自発性に先んじていたことはいなめない。政府も県もそれをおそれ、地域の啓発・理解への手段と努力を心掛けています。しかしその糸と受け止め方、あるいは町村間での受けとめ方に差があり、そこがこの町村合併での問題点でもあります。
*政府の政策展開と県の対応
日本国憲法施行とともに発行した地方自治法は、戦前の地方制度を定めた市制・町村制の諸法とは大きく異なり、地方自治行政の総合法としての特色を持っているとされています。それは市町村の自主性・自律性と住民自治を基本的内容としていることでした。そして戦前に比べると、新憲法下の市町村の権限と行政担当範囲は大きくなりましたが、さらに昭和23年の警察法・教育委員会法・消防組織法の制定は、従来国の管理下にあったこれらの仕事を市町村に移していきました。
このことは地方自治権の拡大でしたが、そのために市町村の行政事務はますます拡大し、支出を増大させ、市町村の財政を圧迫しました。ここに行政規模を大きくして事務を統一合理化し、財政健全化を図る手段として町村合併が取り上げられました。

シャウプ勧告

「市町村学校・警察・その他の活動を独立して維持することが困難な場合には、比較的隣接地域と合併することを奨励すべきである。市町村、または府県の合併が、行政の能率を増大するために望ましい時にも、またこれを奨励すべきである。このようにすれば、小規模な行政による不利益を克服するであろう」
昭和24年5月、シャウプ氏を団長とする税制調査団が来日し、3ヶ月に及ぶ調査の結果、日本の行政全般について改革を行うように勧告しました。その中で、地方自治について言及し、町村合併の必要を勧告したことが、戦後日本最大規模の町村合併へのはずみとなったのです。シャウプ勧告は、日本の場合、中央政府が市町村に対する関与が多すぎ、国は補助金を出し、その統制下で行われる行政事務が多いこと、また、国・県・市町村の行政範囲や区分が複雑で責任の所在が分からないし、住民は自分の払う税金が、自分に有益な行政の形で還元されているかどうか、見定められない。そして国・県・市町村の行政事務をはっきり区別し、それぞれの一般財源(国税・県税・市町村税)でしょりすべきであるとして、特別委員会を作って内閣に勧告するよう求めたのでした。
地方行政調査委員会議
昭和24年12月発足した地方行政調査委員会議は、翌年第一次勧告を行い、この中で「地方公共団体の規模の合理化」として、特に現町村数1万2百、平均人口5千余人、この平均人口に達していない町村が全体の66%で、現段階でも事務処理が円滑に行われているとはいえないとして、「当会議としては諸種の飼料を総合的に判断した結果、規模が著しく小さい町村については、概ね人口7、8千程度を標準として」と提言しています。
これが以後の町村合併審議において目安とされました。「合併規模八千人」の初例となったのです。昭和26年1月、地方自治庁が独自の地域調査を加えてまとめた合併試案も、八千人安を踏襲しています。
答申を受けた政府は、自治庁通達として都道府県に対し、適切な助言により自主的に合併が進むことを望むとし、県主催の下に市町村長、市町村会議、県議会、学識経験者等による協議会を作って合併の機運を促進し、円滑な実施可能な基盤を用意しておくことを求めています。
この政府通知は、昭和27年8月、地方自治法の一部改正によって法的にも保障されました。同法八条二項は、都道府県知事に市町村の廃置分台や境界変更に関する勧告の権限を与え、同項の2で、合併計画の決定や変更において、前途の人々の構成による協議会の意見を聴かねばならないこと、同項3で、その内関係市町村の意見については、当核議会の議決によらねばならないとしました。そこで熊本県では、後に述べるように町村合併基準委員会が発足するのです。

町村合併基準委員会

熊本県内においても、町村合併の必要性については県議会でも取り上げられ、町村会での議題となってはいましたが、本格的な動きは昭和26年より始まりました。
同年6月、県町村会総会が「町村規模合理化の実現を期する」という決議を行ないました。これを受けて、県も10月に各郡の地方事務所を通じ、県内町村の総合調査をはじめ、町村合併について行政としての動きを始めました。
これは、中央で地方自治庁の第一次試案発表、地方行政調査委員会の第一次勧告が行われているのと時を同じくしました。
昭和27年6月、県は合併の研究と推進機関を作るため準備会を開き、7月には熊本県町村合併基準委員会を発足させました。委員は町村長7、町村議会議長7、県会議員3、学識経験者4、県職員2で構成されましたが、阿蘇郡からは郡町村会長の緒方重吉宮地町長が参加しています。同会は28年1月の第一回会議で「町村合併指導方針」「町村合併基準」を決定しています。
また県は各地方事務所に郡基準委員会の設置を指示したので、昭和27年の2~7月のうちに、各郡でも基準委員会が発足し、地方事務所作成の郡内合併議案等を検討し、また地域の懇談等に出席することが求められました。
この中で、県は合併の機運にある町村の指導促進を図るため、指導要領を作って地方事務所に伝え、昭和29年4月1日合併発足の実現を可能にする条件を作り上げるよう支持しています。このいわゆる「機運町村」とは、地方事務所長などの意見を徴て選考された第一次合併町村候補であり、阿蘇郡では旧一の宮町と旧阿蘇町が対象となっていたとみられます。そして4月1日の合併の必要書類は、できるだけ12月中の作成に努めるよう指示がありました。現実の日程はその通りにはならず、ずれ込んでいったとみられます。

町村合併促進法

昭和28年8月成立した町村合併促進法は、3ヶ年の時限立法として作られたもので、その間に全国の町村数を3分の一に減少させることを目的としたものでした。この法は合併に町村の自発意志を求め、その促進を図るために、県に町村合併促進議会を置くこと、合併町村は新町村建設の基本方針、役場、学校・病院等の統合整備、道路・橋梁等の整備を内容とする建設計画を策定すること、そのために、様々な優遇措置を認めていました。

合併試案

県は各郡から上申された合併試案をもとに、昭和28年6月から全県規模の合併試案の作成をはじめ、県内315町村を92ヶ町村とする案を10月の県合併基準委員会に提出しました。この案はその後の修正を経て、86ヶ町村とする最終案となり11月に決定、合併議案要項とともに発表されました。
この試案要項は、基本方針において、合併は本来個々の町村が自主的に行うべきですが、他を考慮せずに行った場合、取り残される町村が生ずることもあり、県内一円の適正規模の合併構想を策定しました。
その取り扱い要領として次の5項目がありました。

  1. この試案は町村議会議長、地方事務所長の意見をくみ、人口約8千以上、町村規模の均衡を目標に基準員会が作成したもの。
  2. この試案は合併促進の構想である(都道府県知事の構想ではない)。
  3. 町村の案とこの試案に違いがあっても、なるべくこの試案に調整すること。
  4. 郡境にわたる合併や町村分割は慎重に。
  5. 町村合併促進法の精神に合わせ、周知徹底をはかり、強制合併の印象を与えないように努める。
    この試案決定により、基準委員会儀は発展的に解消し、昭和28年12月27日に熊本県町村合併促進審議会が発足して、合併の実施に動き出します。
    昭和30年前後は、まだきびしい社会状況は残っていましたが、戦後日本の混乱は収束され、将来への展望をつなぎ得る空気を皆が感じ始めていた頃でもあり、町村合併も、それを支える役割となっていました。

参考

阿蘇一の宮町史 戦後農業と町村合併

カテゴリ : 文化・歴史
索引 :

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