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宮地軽便線

概要

「世界一」の規模といわれる阿蘇のカルデラ内へと汽車が黒煙を噴き上げ、雪景色のなかをあえぎながら、登ってきたのは大正7年(1918)のことです。
その鉄道は「軽便鉄道法」によって建設されたことから「宮地軽便線」と呼ばれました。軽便鉄道ではありましたが、民間資本ではなく、国の鉄道です。鉄道唱歌で「九州一の大都会」と歌われた熊本から東に53.4㌔。標高538㍍。大正元年に着工され、肥後大津、瀬田と延びてきた鉄路は、33パーミル(1,000㍍進むのに33㍍昇る)の立野の難所もスイッチバックで越え、阿蘇地方の政治、文教の中心である宮地町(現在阿蘇市一の宮町)までようやくたどり着き、この年1月25日、腫れて開通祝賀会を迎えました。時を同じくして着工され、大分側から西へと延びてきた「犬飼軽便線」と阿蘇外輪山を越え、結び合い、九州の東西を連結する横断線「豊肥本線」となるのはもっと後の昭和3年(1928)のこととなります。

祝宴

宮地駅の建った場所は、阿蘇中部高等小学校の広い運動場でした。県道(熊本ー大分線。現在の国道57号)の北側にコの字型に校舎が建っており、そこが祝賀会場になりました。
午前11時30分、黒山の見物者の見守る中を、太田政弘県知事ら来賓200余人を乗せた臨時列車が到着しました。雪が舞い、人だかりの中をぬかるみに足をとられながら、一行は祝賀会場に導かれました。大きな縁門(アーチ)が立てられ、夜はイルミネーションに輝く様になっていました。矢野移動動物園や見せ物小屋もでき、露店が並びました。駅前の高等小学校の屋外に紅白の幕が張り巡らされ、そこが式場になり、教室では熊本物産館の出張陳列もなされ、賑わいました。午後12時20分、煙火の合図で、全員が式場に着席しましたが、寒風と雪に震えました。香山豊喜阿蘇郡長の開会の辞があり、幕外の楽隊が「君が代」を演奏しました。熊本市新市街の映画館「電気館」専属の楽士たちで、臨時列車に一緒に乗車してきました。
あまりの寒さに祝辞も開通祝賀会長の香山郡長、太田県知事ら5人で打ち切られ、門外に控えていた中部高等小の男女生徒らが式場に入り、日の丸の小旗を振りながら「鉄道開通の歌」を歌って一周したところで式は終わりました。それぞれ校舎に分かれて入り、宴会に移り、乾杯し、折りに手をつけました。その折りは熊本市内の業者に頼んだものでした。祝賀会には阿蘇郡内や鉄道院の職員らも招かれ、約300人。天皇陛下万歳、阿蘇郡万歳の声が各校舎から轟きました。明治23年(1890)ごろから中通村の高宮廣雄らと豊肥線誘致に取り組んだ犬飼真平も祝辞を用意してきましたが、読むことが出来ませんでした。
一行は午後2時15分宮地発の臨時列車に再び乗り込み、煙火、楽隊に送られ汽車は帰路につきました。風雪の中、見物者の数は6,7千人に及びました。
臨時列車は途中、坊中・内牧・赤水の各駅で停車し、そこでも祝賀会が持たれました。坊中駅では「阿蘇登山停車場」と書いた大きなむしろ旗が掲げられ、内牧駅では駅から内牧まで一直線の道路が開通、その祝賀会も兼ねていました。午前中、宮地に向かう臨時列車に向かい、整列して「万歳」を叫んだ消防団員らが酒の燗つけに大活躍しました。車内の来賓者等は下車し、また慌ただしく列車に戻りました。酒肴が客車に運び込まれ配られました。大きな焚き火で暖を取り、熊本から呼んだ肥後にわかが仮舞台で演じられ、おめでたい時の虎舞が披露されました。「万歳、万歳」の大合唱。坊中でも激しかった雪が赤水ではさらに激しくなり、虎舞などを見物する群衆はみるみる雪の達磨と化す勢いでした。と当時の「九州日々新聞」(「九州日日新聞」と「九州新聞」が合併し昭和17年、熊本日々新聞となりました。)
宮地町では、列車が到着する度に見物の人だかりができました。熊本から雇われた「マーチャン組」のにわか踊りも寒風吹きすさぶ舞台上で滑稽を演じ、昼夜連続する花火とともに「空前の盛況」を呈しました。
こうした祝賀会を準備したのは土地の地主階級でした。宮地きっての大地主「角屋」の当主、栗林謙輔や坂梨の市原助雄らはわざわざその朝、彼らには祖父や父たちの代からの熱烈な運動によって鉄道開通が実現したという思いがありました。
来賓の国権党の代議士の平山岩彦や県議、香山郡長らは赤水から下り列車で引き返し、坂梨村(現一の宮坂梨)の大地主「虎屋」の菅鎮雄宅での宴席に列しています。宴は深夜まで続いています。翌朝、宮地の「角屋」に移り、そこでも接待を受けています。

参考

一の宮町史 豊肥線と阿蘇 ~近代の阿蘇~

カテゴリ : 文化・歴史
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