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小作料と牛小作

小作料

阿蘇郡坂梨村が明治35年5月に発行した『阿蘇郡坂梨村是』に「地主と小作人との関係」という項目があります。
「本村小作地の慣例は、田畑其大抵小作人より小作証明を地主に差し入れ、総ての契約を為し、畦畔堤防の修繕は小破は小作人に於てし、大破を地主に於てす。虫害駆除に対しては殺虫油は大概地主之を弁し、凶作の年柄にあっては減収の度合いに応じ小作料を減少する等。互いに徳義の制裁を重んじ、紛争を生すること幾んと之れ無く、中等以下の畑地に在っては其収穫品を折半するものあり、之れを作半と称す。作半は大抵小作証を入るる事を要せざる習慣なり。而して小作期は一定の期間なく、殆んど無期限の姿なりといえども間々又五ヶ年以内を期するものありとす。小作米は上田玄米壱石五斗、中は壱石下は七斗内外。畑は上玄米六斗中四斗内外にして、下は則ち壱斗五升乃至五升なりとす。納期は陰暦年末にして怠納するもの稀なり」とあり、契約条件が水田の生産力に応じて段階が設定されているが、収穫量の半分か以上という厳しい条件であったことと、物納の米を陰暦年末である1月下旬までに治めるとなると、機械装備に乏しい明治時代には、脱穀・精米作業に追われたものと推定されます。

「・・・従来は地主と小作人との間は徳義を重んじ、(いやしく)も小作米滞納の為め、地主より小作地を引き上げらるること等ありてば大に恥辱となし、其契約も口頭の約束に止め、小作証書の取替等の事なかりしか、頻年漸く浮薄に流るる風に傾き、小作米延納又は減宥を請う事すくなからざるを以て、地主に於いても大に警戒を加え、田畑共総て小作証書を差し入れる事となれり・・・」とあり、契約不履行による地主の緊張感が窺えます。
いずれにしても、物納時代の小作料は収穫量の50%前後を占め、小作人の生活の厳しさが理解されます。水田の土地生産性の高い一等田で反当たり最高四俵、低い水田で同じく二俵の格差が付いていました。上納米は玄米に精米され、俵に生産者の氏名・生産地の記入された荷札が付けられ、地主の倉に馬車や牛馬の鞍に積まれて運ばれました。地主は数量を大福帳に記入、米の品質を検査していました。完納した日には小作人にねぎらいの言葉をかけ、食事や酒が振る舞われるのが慣例でした。
上納米は米の仲介人に売ることになりますが、宮地町にも数人の仲買人がいて、米相場により買い付けていましたが、地主は少しでも高く値をつける仲買人を選定して売却していました。
戦時中は食糧管理生活の上から昭和14年の国家総動員法による「小作料統制令」により定額物納小作料は、金納小作料へと現実に進んでいました。昭和15年には米の供出制度の実施、昭和16年には「臨時農地価格統制令」、昭和17年には「食糧管理法」と、戦争遂行のために、相次ぐ国家による食糧管理の締め付けがなされました。
昭和15年~19年の平均反当玄米収量は二石(五俵・300㌕)であり、金納小作料の生産物価に占める比率は、昭和16年では45%、同18年には38%、20年には9%と小作料は低率化をたどっています。
戦後、小作料は不在地主のものは全部、在村地主のものは自家保有米を除いたものが国家管理のもとにおかれ、その出荷についても地主の手を煩わすことなく、小作人によって行われるように措置されました。
農地改革における小作料金納化の徹底化は、従来の高率とされてきた現代の範疇を超えた高額物納小作料は、定学納金(石当たり75円換算基準)に転化したことで、低減化せしめ、農家の支出中に占める小作料の比率は低下しました。こうして、地主制の地位は低下し機能の分解が促進されていきました。

牛小作

農業生産における土地所有者である地主と小作の関係と同じ制度を基盤にして、蓄主が農業経営の資金に乏しく自己所有の牛を飼うことができない農家と牛を一定期間、貸借契約を行うことを「牛小作」といいました。借用した牛は使役と厩肥生産が主体で、子牛生産の販売収益を畜主と分益することでした。畜主は経済力にゆとりがあり、財産の運用として牛を購入し貸与しました。牛小作の頭数については、最大数十頭程度であったといわれ、牛の所有はほとんどが大きな地主であり、農地の地主と小作の慣行と類似しています。
牛小作の呼称と条件は、「初子取」とは、牛小作人が育成牛を預かり飼育し、後に成牛となって子牛を分娩したら、小作人の所有となる条件でした。次に、2産目に分娩した子牛が育成牛となって販売した時、販売金の4分の1を小作人が受け取る事を「足1本」といいました。同じく小作人が販売金の2分の一を受け取ることを「足2本」、同様に4分の3を「足3本」といいました。一般的には足1本か足2本が多かったそうです。
牛小作の契約期間は一年間で、更新時期は八朔(陰暦8月1日)の決まりで、この日には小作人は牛を引いて畜主の家を訪れます。畜主は牛の管理や栄養状態をみて、契約の継続を決定していました。この時畜主は小作人に酒食の接待を行うのが慣例でした。


牛小作が戦後間もなく消滅した理由として、戦後の人の食糧難で牛への飼料(主にトウモロコシ)が不足したことや、牛小作側の契約条件の不利が認識されたこと、さらに、自立経営農家が育成されたことが考えられます。

参考

阿蘇一の宮町史 戦後農業と町村合併

カテゴリ : 文化・歴史
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