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歴史

阿蘇地域における歴史的環境の変化や人々の生活圏の缶に遷移、阿蘇火山を中心とした独特の地形と自然環境の変容と密接な関係があります。
9万年前の大規模火砕流噴火によって壊滅状態にあった生態系は次第に回復し、少なくとも約3万年前には外輪山上に旧石器文化を持つ人々の遺跡が認められるようになりました。続く縄文時代は外輪上から外輪山中腹に遺跡が多く分布。このことはこのエリアが狩猟・採集に適した環境であったことに加えて、地質調査などで指摘されているカルデラ湖の存在により、カルデラ床が生活に適さない状況であったことも考えられます。

弥生時代には、人々は、稲作の開始と共に耕作地を求めて平地に進出しましたが、火山地帯という過酷な自然条件に加え、広大に広がる湿地により稲作可耕地は限定されたと推測されます。稲作には不利な条件が重なる一方で、阿蘇谷西武に産する褐鉄鉱(リモナイト)を原料としたベンガラ作りや鍛冶などの原初的な産業が成立、これらを原資とした活発な交易を通じて中九州の弥生社会における独特の地域文化が確率されました。ベンガラを多用する祭祀儀礼などの風習や褐鉄鉱を加工し「火」を巧みに操る技術などは火を噴く活火山「阿蘇」があってこそ開花したものだといえるでしょう。

本格的な平地開拓が始まったのが次の古墳時代です。湿地が少なく、土壌あ安定していた阿蘇谷東部は本格的な開拓の対象となり、開拓の指導者は、阿蘇谷東部を基盤としてカルデラ内部のち生き支配の統合を図りました。また、5世紀には、前方後円墳「長目塚古墳」を中心とする中通古墳群が首長墓として築かれ、畿内の大和政権との密接な繋がりを示しながら、県下屈指の豪族「阿蘇君」を頂点とする地域支配体制を確立したのです。

この豪族は律令時代を通じて一族の祖と、阿蘇火山を合一した髪を祀る司祭者としての正確を持ち、さらに中世に至っては、地域武士団の棟梁として「阿蘇大宮司家」となりました。
政治と宗教の両面から封建的な支配を成立させる家庭で、火口の異変を中央に報告する火山振興により、その地位を不動のものにし、火山神は次第に農業神へと変貌を遂げていきます。そして人格神となった「健磐龍命」を祭神とする阿蘇神社が設立し、開拓神として健磐龍命を起源とする様々な神話伝説、農耕祭事が今に伝承されています。

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参考

阿蘇ジオパーク
阿蘇ジオパークのジオサイトとして選定されています。


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