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港屋

概要

牛馬を引いて8㌖の草原を歩き、さらに外輪山の木落坂を降りる・・・。外輪山上の荻の草集落の人々が、阿蘇谷の原口集落に着くまで約3時間を要しました。牛馬の鞍に積んできた干ししいたけや木炭、竹の皮、竹ヘごで結束した薪などを降ろし、南部・村上の2軒の商店で値踏みしてもらい生活用品と交換しました。ここでは荒物や反物のほか、食料品などなんでも揃いました。原口集落は、荻の草と上田尻のおよそ100戸の人々の生活用品ほ補給基地として機能していました。
ここに「港屋」という看板を掲げた食堂がありました。経営者は山本千代喜氏(明治25年生まれ・故人)。たたきの土間にテーブルと椅子があり、10人も客が入れば満員になりましたが、草原を越えて牛馬を引いてくる客で賑わっていました。店の隣の空き地には丸太でできた牛馬の繋ぎ場があり、常時6~7頭の牛馬が繋留できました。飼い主が食事する間は、牛馬も干し草を食べながら静かに休息していました。冠婚葬祭のため草原を越えて町に降りてくる人はここで腹を満たし、地下足袋から革靴に、モンペから和服に着替えていました。

太平洋戦争

昭和13年、戦争の足音は草原を越えて、荻の草にも及びました。同地区の宮崎秀俊氏は小学4年のとき、父、弘氏の出征を家族とともに見送りました。広い草原を歩き、外輪の坂を下り、港屋で別れの食事をとりました。当時、出征軍人には難を避けるという願いからナンテンの枝を担ぐという風習があり、弘氏は枝を港屋の裏庭に挿して戦地へと赴きました。しかし3ヶ月後、悲しい戦死の公報が自宅に届きました。秀俊氏は父の遺骨を受け取るため、再びススキの穂がそよぐ草原を越え、港屋を訪れました。その裏庭には出征の日に父が挿したナンテンの木がまだ生きていたそうです。
港屋は、人生の苦難を背負ってはるばる草原を越えて来る人々にとって、人生の安らぎのの港でもありました。

上田尻=現在の阿蘇郡産山村


カテゴリ : 生活
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