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町の歴史

髙本紫溟と萬松蘆

『紫溟』は名を『順』といい、後に『慶順』『慶蔵』と称し、『啓蔵』と改めました。『紫溟』はその号です。彼は、幼い時から才知にたけていたが、父を亡くし、心に期するところがあり、阿蘇家の招きもあり、宝暦六年(一七五六)熊本から阿蘇の宮地にきました。
 当時の阿蘇神社権大宮司草部光輝の家に寄宿し、阿蘇神社阿蘇家所蔵の国学、詩歌の書本や古文書等をことごとく読破、ひたすら勉学に励みました。大宮司惟典は彼の優れた才能に応え、宮地古神ヶ原に一つの庵を建て紫溟に与え、さらに学問の道を極めることを勧めました。
 古神ヶ原は阿蘇家廟のあるところで、松林がうっそうと連なり、阿蘇の五岳を望む風光雄大の地です。紫溟は、この地で松籟狐狸を友とし、庵を萬松蘆と称し、独居益々学問に磨きをかけました。阿蘇家、家塾の師としてだけでなく、貧しい家の子にも学問の教えを説き授け、共に研鑽に励んだといいます。
 この萬松蘆は高本塾とも呼ばれ、『阿蘇の野人、牧童列をなし、教えを乞うた』と言われ、阿蘇の文教は一気に高まりました。
 松籟を聞き、澄んだ月を仰ぎ、阿蘇の精気にふれ、宮地に住み、学を究むることを七年有余、紫溟の名は熊本の府に聞こえ、藩に迎えられました。藩校では時習館訓導(教諭)助教授(教頭)として教鞭をふるい、天明八年(一七八八)時習館第三代教授(学長)となり、在職二十五年、時習館の名教授と称えられ、また、肥後国学の祖と仰がれました。文化十年(一八一三)に没し、墓所は熊本市本妙寺にあります。
 紫溟は、近世肥後の文教発展に大きく寄与したことは言うまでもないが、その源泉は阿蘇であり、この萬松蘆からとも言えるでしょう。幼くして父を失い、勉学を心のよりどころとして、阿蘇家の知遇を得たとはいえ、修め得た学問の道を身分のわけへだてなく、阿蘇の多くの人に授けました。まさに阿蘇の文教は古神ヶ原の萬松蘆、高本塾から流れが広まったともいえます。
 紫溟が独居して学問に打ちこんだ萬松蘆は宮地、古神阿蘇家霊廟の南にあったといわれ、現在その跡地には、紫溟の漢詩八首を刻した「萬松蘆八首」の碑が弘化三年(一八四六)五月塾生により建てられています。
 なお、紫溟が後にこの地を訪れ、また、この地を追憶して阿蘇大宮司に贈った歌が次のように残っています。
「むかしわが住みにし庵のあととえば空にことふる松風のおと」「人の世はかわりゆけども山里のわれまつ風はいまもふくらし」「月のみやなは澄みぬらんむかしわが庵むすびし山の井の水」

文・嘉悦 渉

カテゴリ : 文化・歴史

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