ホーム > 社役の負担

社役の負担

概要

阿蘇谷には坂梨・野中・手野などの集落が知られますが、これらはすでに平安末期12世紀頃には存在していたとみられなす。このころ阿蘇社は阿蘇郡を社領として治めるようになって、肥後国の国司の支配から自立しました。このような現象は、全国的に生じた荘園の増加として知られています。
このころには公地公民制による班田収授制はすたれ、国司の力で保証されていた神社の経営に代わり、阿蘇社は自力で周辺の土地を支配して神社を経営する権利を得たこと、そのため新しく地名郷を定めて納税負担の単位としました。この郷は10町につき1家分という負担基準があり、40町の里では4家分の負担で阿蘇社から課税されました。
ただし、これらの郷の現地の納税責任者の具体的な姿は見えず、当時何と呼ばれていたかは明らかではありません。後年の史料に「本主(本領主)」と呼ばれている例にその可能性があるが、当時一般に「名主」と呼ばれていた階層に属していたといえます。彼らは家内下人を使って耕地を自作する一方で、小農民家族を招き寄せて屋敷内に住まわせ、耕地を貸して下作(小作)もさせている農業経営者でした。彼ら名主層の中には阿蘇社の社家や供僧も含まれ、大宮司の家臣である武家も所属していたと考えられます。
後年の南北朝・室町期にもなると、社家・供僧・武家たちは農業経営者の立場から上昇し、中間的支配者(領主化)になりますが、残ったそれより下の名主層の農業経営も、やはり自作と下作人を抱えた複合的な中世の農業経営から変わることはありませんでした。次の時代の太閤検地はこのような名主の複合的経営を分解させることをねらったものとなりました。

参考

阿蘇一の宮町史 戦後農業と町村合併

カテゴリ : 文化・歴史
索引 :

このページのURL:

TOP