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端辺原野(過去の記録)
更新日: 2016-06-30 (木) 17:39:09 (2828d)
概要
端辺とは、二重の峠・鞍岳・ツームシ山・尾の岳を結ぶ線以東で、九州横断道路までの原野を指します。俗に端辺八里といいます。
端辺は阿蘇カルデラの円周約100㎞の北西外輪部で、面積は約10,000㌶。カルデラの壁が障害となって、昔から道路整備が遅れてきた地域でした。加えて、標高700~800mの高冷地であるため気象条件が厳しく、安定した一般作物の栽培にも適していません。つまり、端辺は"人の生活から遠い辺境の地"という意味から称せられた地名でした。
大宮司と「端辺」
奈良、平安時代の「牧」は中世以降の駅馬。伝馬制度の形骸化にともない廃止されました。
この頃になると馬の生産は地域内で必要な数だけを身近な所で飼育するだけになりました。以前は駿馬の名産地として全国に名を馳せた二重馬牧も、再び収益性の低い辺境の地と化したのです。
『阿蘇文書』には、この端辺について「原野となっている端辺は公方(大宮司)分」と記されていて、農耕に適しない狩猟地としてだけの低い価値の土地でした。土地生産性の低減した端辺は、領民の立ち入りを禁止するでもなく、仮にその領内で猪や鹿を捕獲した場合でも頭や皮を納めればよい、といった程度の緩やかな規制しかありませんでした。
一方、端辺の下の外輪山内側に、馬蹄形状に存在する湯浦地域は、中世には阿蘇社領のうちの湯浦郷と呼ばれていました。現在の内牧の北、西湯浦・湯浦地域に当たりますが、この地は同じ規模の23ヵ村に編成されています。
これらの村々の屋敷は斜面と平坦面の接点に位置し、前方に田地、背後に山野を分け与えられていました。そして農作物以外に、山野から穫れた薪炭・鳥獣などが納税の一部となり、飼料や肥料となる草や落ち葉が農業を支えていたとみられます。ほかに、山野分けには農民分以外に「大宮司狩倉」(現在の長倉坂東南斜面)や「大宮司秣田」(現在の折戸平付近)と呼ばれる大宮司の狩場や大宮司の牧(内牧)があったことが知られています。したがって、この時代になると山林原野は端辺のようなほとんど規制のない部分と、領主や農民の占有範囲がはっきりした部分に分かれていました。
狩猟と草原
農作物や牛馬以外の、山野からの収益物といえば、狩猟が挙げられます。これが大規模な宗教行事となったものの一つが、阿蘇社の「下野狩」です。旧暦2月の初卯の日、木の芽が出る前に、現南阿蘇村下野を中心に行なわれた大規模な巻狩で、この地も現在と異なり、当時は広々とした原野だったと考えられます。
「下野狩」は源頼朝が「富士の巻狩」の参考としたという伝承もあるほどで、かなり古い時代から行なわれていたと推測されます。しかし、阿蘇社領あげてのイベントとなるのは十五世紀後半から。これには、野焼きとの関連も考えられます。
宮川三友氏の作成した下野狩の現場推定図によれば、狩りの包囲網は現在の国道57号を底辺とし、阿蘇町永草から米塚、米塚から南阿蘇村下野を結ぶ三角形の周囲約16㎞、面積1,000㌶に及ぶ草原であったとみられます。これには大宮司・神官僧侶・領主・領民も参加し、一の馬場、ニの馬場の行事を終え、続いて狩奉行の指揮下に火入れが行なわれました。そして、鹿や猪を三の馬場に追い込んで仕留め、阿蘇の神々に捧げました。結果として、焼き払われた草原ではやがて新しい若草が芽生え、獲物の兎や鹿、猪など草原や林地に生息する野生動物の食料となりました。つまり、狩猟と野焼きとは密接に関係しており、そのつながりは決して無視できません。
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