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西巌殿寺

西巌殿寺(さいがんでんじ)と文化財

 

紙本墨書仏舎利渡状(しほんぼくしょぶっしゃりわたしじょう) 国指定重要文化財(書跡)

 今から約650年前の南北朝時代では、北朝と南朝が攻防を繰り返していましたが、次第に北朝に有利な状況になっていきました。そこで、南朝の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、各地に皇子を派遣することで味方の勢力を築こうと考えました。九州には懐良親王(かねよししんのう)を征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命し、隈府(わいふ)(菊池市)に拠点の征西府(せいせいふ)を置き、勢力を広げていきました。しかしその後、北朝方の勢力が増してくると、征西将軍の地位は良成親王(よしなりしんのう)に譲り、福岡の八女に隠退したとされています。
 この書状は、親王が天授(てんじゅ)元年(1375)11月2日に五条良遠(ごじょうりょうえん)を使者として、西巌殿寺(さいがんでんじ)に仏舎利(ぶっしゃり)(仏の遺骨)を奉納したときの渡状です。奉納することで、南朝勢力の回復を祈願したものと思われます。この仏舎利は、正平(しょうへい)14年(1359)9月8日に皇室と縁の深い京都の泉湧寺(せんにゅうじ)の老住職から贈られたもので、そのときの渡状も一緒に書き写されています。懐良親王の動静の一端がうかがえる貴重な史料といえます。

紺紙金泥般若心経後奈良院宸翰(こんしこんでいはんにゃしんぎょうごならいんしんかん) 国指定重要文化財(書跡)

 今から約450年前の戦国時代、後奈良天皇(ごならてんのう)の在位の時代は争乱のさなかにあって、中央では室町幕府の権威は衰え、皇室の経済的困窮ははなはだしいものでした。更に、天文(てんぶん)8年(1539)の大雨洪水による凶作や、同9年には大疫病も発生し、国民は疲弊していました。天皇はこれらを深く憂(うれ)い、紺色の紙に金色の般若心経を書写して諸国の一宮(いちのみや)に奉納し、国家の安泰と国民の幸せを祈られました。このとき奉納されたもので現存するのは9巻しかなく、この書はその中の1巻で大変貴重なものです。
 肥後国(ひごのくに)(熊本県)では、一宮である阿蘇神社に奉納されました。そして、天文14年(1545)に阿蘇大宮司が西巌殿寺に納められました。このことは、惟豊(これとよ)の書状(添状(そえじょう))に記されてあり、西巌殿寺には般若心経とセットで現在も大切に保管されています。
 般若心経は、仏教の教えの真理の智慧(ちえ)(般若)を1巻に凝縮し、簡潔に説いたもので広く読経(どきょう)されていました。

写真

紙本墨書仏舎利渡状

紺紙金泥般若心経

附従三位惟豊添状

映像

毎年4月13日に行われる「阿蘇山観音まつり」の火渡り

参考

~文化財を大切に~  みんなで護ろう文化財



カテゴリ : 文化・歴史
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