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野焼き事故

概要

阿蘇の野焼きは春の彼岸を中心に一斉に行なわれます。スケールの大きさと迫力に、毎年約14,000人もの観光客が訪れます。
野焼きの直後は黒々とした山肌が露わになります。しかし、暖かさが増すにつれて、やがて緑が一面に広がりはじめ、黄色のキスミレや紫色のハルリンドウなどが咲きます。
この阿蘇地方の野焼きは単に春を代表する季節のイベントではなく、農家の人々が命の危険を冒しながら従事する、大切な農業の営みでもあります。

昭和21年3月21日

昭和21年3月21日、根子岳の北斜面にある泉牧野組合の採草地で悲しい事故が発生しました。
その日は、同組合の火入れの日で、朝から強風で作業は見合わせられていました。午前11時頃に組合の総代で協議の後、風が止むのをまって実行することとしました。ところが、火を入れて1時間が経過した正午頃、悲劇が起こりました。
強風が起こり、猛火となって拡大。荒れ狂う火はやがて防火線に迫り、そこを守っていた組合の人達を襲いました。防火用具の桧の枝を手に必死に火の手を食い止めようとしましたが、火は防火線をも突破し、隣接の波野村にまで広がりました。
この火災は延べ数十㌶の草原と山林を焼きつくし、同日の夕方鎮火しました。焼け跡の斜面からは、真っ黒に焼け焦げた2つの骸が出てきました。それは必死になって猛火と闘った組合員の変わり果てた姿でした。
この泉牧野組合では今でも、この日を避けて一部の野焼きをしています。
また、昭和55年には、宮坂牧野組合でも野焼き中に火災が発生し、尊い人名が奪われました。

『工藤稲生氏殉難誌』

昭和55年3月25日北山原野火入れの際、工藤稲生氏は六区区長及び宮坂牧野委員であり、責任者として陣頭指揮に当たり、隣接組合と無線連絡、相互確認のうえ巡視中に被火。熊本大学での集中専門治療の甲斐なく不帰の客となられました。強い責任感故の犠牲でありました。
心から哀悼の意を表し殉難の碑をはかり合い建立します。
昭和60年12月 一の宮町長 佐藤哲了 謹書

この殉難の碑は、九州横断道路からミルクロードに入って約1㎞の地点の、道路南側に立っています。



カテゴリ : 文化・歴史
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