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鉄道と阿蘇のくらし

*賑わう宮地(宮地線開通時)
宮地駅の1日の平均乗客数は150人ほどで駅待合室が狭く感じられるほどでした。貨物も米穀をはじめ木材、杭木、樽丸類などが持ち込まれ、貨車不足もおこりました。米穀だけでも約5,000俵を数え、駅前の倉庫はあふれていました。入荷は熊本方面からの酒、醤油、塩干魚、雑貨、反物などでした。
貨車の連結を望む声は幾度と無くあがりましたが、宮地線の勾配ではこれ以上の連結は出来ませんでした。
それまで阿蘇地方には豊後臼杵から鮮魚類は来ていましたが、汽車開通で熊本から入ってくるようになりました。阿蘇地域での鮮魚の価格は高く、食膳にもなかな上がりませんでした。しかし有志の間で株式組織の魚市場設置を議決し、1株50円総数100株、5,000円の資本金で株を募集したところ、たちまち申し込み満株となりました。また旅館の大繁盛も汽車開通以後、著しいもので、県内外から多くの人が訪れました。客の対応にはまだ不慣れで、一部有志の間には旅館の施設改良ならびに接客法研究の必要ありと旅館改良が刻下の急務となりました。一方阿蘇の豊富な水を利用して温泉兼用の上等旅館を建設するべきと、しきりに唱えられていました。
駅前の倉庫内にあふれている米俵の大半は同地の地主たちから運び込まれたものでした。阿蘇地方では稲刈り後、田んぼに稲小積みし、年が明けてから脱穀して俵に詰められ、地主のもとに運び込まれていました。それらは小作人から取り立てた米を得米といいますが、地主にはばかって「徳米」という字を当てていました。大晦日になると、小作人が提灯を下げて地主のもとを訪ね、「徳米をまけてもらえないか」といった交渉をする事があったそうです。

産業

農業

阿蘇谷の基幹産業は米作ですが、反当収量は熊本県では最も低い方に属していました。大正13年(1924)からの5ヵ年平均で熊本市が2.48石(1石は下位単位では10斗にあたり、同じく100升、1,000合に相当)に対し、阿蘇郡は1.67石の収量しかありませんでした。阿蘇郡より低いのは天草郡の1.12石で阿蘇郡は下から2番目の低位生産地方でした。

阿蘇地方の反当収量が劣るのは、準寒冷地で火山灰土壌という耕地条件がはなはだ悪いことも大きな理由ですが、それだけではありませんでした。この地が「地主王国」であったことを農業関連の経済紙が指摘しています。
当時、熊本県内には50町以上の田地を持つ地主は102人いましたが、その内阿蘇郡は19人と最も多く、次いで八代郡17人、天草郡10人。それに対して熊本市5人、菊池郡3人、鹿本郡ゼロです。つまり大地主の多い地方ほど反当収量が少ないということです。収量が少なく、暮らしが厳しい所ほど田畑を手放す農家が多く、それが特定地主への土地集中をなさしめたともいえます。紙面の中で「このような大地主は農村に居住していても、多数の小作人を抱えているために『帳元』と称せされる世話人を部落ごとに置き、小作人との交渉に当たらせ、自らは政治活動や商業・金融の活動をやるという具合で、農業改良については普通の村方地主よりむしろ町方地主的な寄生的性格が強かった。劣悪な耕地条件を改良する意欲よりも耕地を広げることと小作米の品質を改良することに熱心であった」と論じられています。
紙面上で指摘されるように宮地の栗林家や坂梨の菅家などの大地主は小作人達を集め、品評会を毎年開いている。
明治31年(1898)、肥後米輸出同業組合が地主、米穀商、運送業者など約1,500人で結成されました。県外に輸出する販売米の俵量の統一や俵装の規格化を図り、組合の経営で米穀調査も行うようになりました。一、二、三等、等外米の4等級に分け、合格米でなければ小作米として受け取らないような情勢も作られていました。
宮地線が開通したのはちょうど地主の蔵や土間にきれいに俵装された”徳米”が山と積まれた時期でしたが、これまでのように荷馬車で大津や熊本まで運んでいく必要はなくなりました。駅に隣接して肥後米券社の倉庫が作られました。米券倉庫とは、米穀を保管する倉庫の一種ですが、単に保管するだけでなく、入庫米を担保として倉荷証券を発行、これが米券ですが、証券として流通するものでした。
阿蘇谷の大地主たちの鉄道への期待にはそうした背景がありました。
日露戦争後、一時景気後退の傾向にありましたが、大正3年、第1次世界大戦が勃発し、ヨーロッパの商品市場であったアジアは日本の商品市場に取って代わり、交戦国への軍需品の輸出も加わり、重・化学工業が飛躍し、好景気が続きました。
アメリカもまた好景気が続き、それに伴い日本国内の養蚕業が活況を呈します。阿蘇地方の養蚕は明治20年頃、有志らが上州や信州などの先進地を視察したことに始まりますが、明治27、8年の阿蘇中岳の火山活動による降灰で壊滅的な打撃を受け、遅れを取りました。しかし、桑樹の改良などで栽培戸数も増えていき、明治42年には宮地町の志柿篤太郎が繭市場を設けました。また夏秋蚕の適地として注目されていました。

林業

もう一つ、この鉄道開通で地主たちが期待したのは林業でした。
阿蘇谷に黒川、南郷谷白川と二筋の川が流れてはいるものの、滝となって阿蘇外輪の外に落ち、まったく川運の用をなさず阿蘇地方の林業は立ち遅れていました。ただ、小国郷は筑後川上流から日田へ筏で木材を搬出でき、県内でも先進地となっていました。しかし、それも明治中ごろからのことであり、大正7年、宮地線が開通すると北外輪を越え、内牧駅から積み出されることになります。

原野の買い占め

阿蘇谷の地主で最も林業に積極的であったのは坂梨の「虎屋」菅家でした。
波野村の山林面積が大正3年(1914)、348町歩と明治20年(1887)に比べ180町歩も増加していますが、このうち大半が菅家のものでした。
昭和40年に発刊された書物に、「旧坂梨村の大地主K家が明治中期、阿蘇谷一円の水田を集積したのち、明治40年ごろから山林原野を集中したのであるが、阿蘇谷の原野はほとんどすべて旧村有又は町村有部落管理であるため浸触することができず、方向を転じて波野村その他の旧野尻手永の原野を買い占めていった。そのため特にその目標となった波野村の村民のごときは広大な原野の中に住みながら原野の不足を嘆くに至ったのである」とあります。
阿蘇谷きっての大地主、菅家は自ら政治に乗り出すようなことはしませんでしたが、その財力で隠然たる影響を与えました。坂梨から波野にかけて豊肥線は菅家所有の山林の間をほぼ抜けるように走っており「豊肥線をいまの路線に持ってきたのは坂梨の虎屋だ」とは今日でもよく聞かれる話です。

明治40年、政府は森林法を改正し、森林組合育成の施策を打ち出すが、昭和6年(1931)7月、古城村(一の宮)に古城土工森林組合が設立されており、森林面積は443町歩、組合員数423人となりました。九州新聞によれば、大正5年11月、熊本から立野まで鉄道が延びてくると、炭鉱の坑木仲買業者が立野駅前に貯木用の土地を借り、阿蘇南郷に入り込んで買いあさっていました。そうした光景はまた阿蘇谷にも見られるようになりました。
もう一つ、宮地線開通に伴い、開発されたものに鉱山があります。
沼鉄と呼ばれる鉄鉱石で、土壌を赤く染めるため「赤水」の地名の由来にもなっています。後藤新平の豊肥線計画で現地視察した際、当時の川路知事が鹿児島から熊本への車中、強調したのが阿蘇谷に無尽蔵に眠っていた沼鉄でした。三井物産が開発に乗り出し、赤水駅から貨車便で大牟田築港まで輸送、北海道室蘭製鉄所まで送っていました。大正8年末、鉄の値下がりでいったん休止した時期もありますが、戦時中の昭和16年には内牧駅に積み出し施設が完成し、盛んに採掘され、最盛期は月6,400㌧積み出しています。

「米騒動」

第1次世界大戦による好景気がまだ続いていた大正7年(1918),伊勢のふくいん一派の相場師の買い煽りにより米価が高騰し、富山県の漁村で発生した『米よこせ』の運動がたちまち全国に広がり、軍隊の出動をみて、挙げ句の果ては寺内内閣を倒してしまいました。
大戦の好景気で農村労働力が都市や工事場に流出し、消費者が増えていきました。
農村部でも養蚕などの副業収入で農家の収入も増え、米の消費が増加、また酒造用に消費される米も増えて、米不足となりました。地主は小作米をため込み、米穀商も加わってシベリア出兵を見込んで買い占め、売り惜しみをし、おまけに政府は外米輸入をしぶったために米価は日々高騰していきました。
熊本市などでも暴動に発展する動きがありました。市当局が市営外米販売所を設け、精米問屋組合も県外への米の注文を受け付けないと決議したことで沈静化しました。阿蘇郡内でも地主らの寄付金で低所得層に廉売券を発行しました。

町並

No屋号
1藤屋観光
2豊前屋
3桜屋旅館
4白石商店
5大分屋
6三角屋
7高宮運送
8ななえ食堂
9篠田国三郎(屋号不明)
10市原製材所
11渡辺製材所
12古木常七商店
13野尻屋
14豊前屋(永松酒店)
15便利タクシー
16森理髪店
17上村米店
18長尾製材所
19佐藤商店
20宮本肉屋

阿蘇谷へと登ってきた鉄路は、県道(現在の国道57号線)に並ぶように東進し、宮地駅が造られました。豊肥線が全通するまでそこが終着駅となりました。駅舎は同県道の南側約50㍍奥まった場所に建てられました。そこは阿蘇中部高等小の運動場でした。周辺の畑地も買収され、構内面積は13,200平方㍍でした。

熊本から大分に至る同県道は明治18年(1885)、富岡敬明知事によって設けられ、それに伴い内牧から郡役所が移ってきました。坂梨村境の県道沿いに警察署、裁判所、郵便局などが設けられ、宮地町は「官庁の町」として発展しました。「富岡町」「裁判町」という町名も生まれました。宮地駅から北に約1.1km、町の中心地である阿蘇神社門前町には呉服や小間物、雑貨、肥料などを扱う商店、醸造元などに加え、旅館や料理屋が増えました。県道沿いには「富岡桜」と呼ばれる桜並木があり、高冷地のため開花も遅く、宮地線開通後はこの桜並木を見物に熊本市内などからもやってきました。
駅前に一番最初にできた店は現在の藤屋観光で、開通1年前のことでした。創業者は坂梨村の藤井茂で宮地裁判所前で司法書士をしていました。開通を見込んで県道との角地を買い取り、妻に文房具店を営ませていました。豊前屋は熊本市浄行寺町、阿部合名会社の屋号で、営業品目は日本酒、洋酒、醤油、缶詰類。この豊前屋支店が設けられたのは藤井文具店と1軒間に置いた南側で、その隣に桜屋旅館が出来ます。駅のすぐ右手で、竹田行の乗合自動車の待合所ともなっていました。駅の左手、桜屋旅館の向かいには弁当屋ができ、後に白石商店となりました。キャンディーを売り、駄菓子も商った。その隣に小料理屋ができました。二階に座敷があり、波野の豊肥線工事にやってきた作業員たちで賑わっていました。戦後、自転車預かり所にもなりましたが、再び食堂となりました。日田出身ということから屋号は「大分屋」。その隣にも食堂ができ、三角出身のため、「三角屋」。その隣の県道に面した角地に「高宮運送」があり、後に「魚直」という魚屋になりました。
藤井文房具と豊前屋との間にも戦前、木賃宿があり終戦後はパチンコ屋や自転車預かり所となり、「ななえ食堂」となりました。
宮地線が開通してほどなく新天地を求め、岐阜から篠田国三郎氏が藤井文房具と県道を隔てた場所に移住してきました。篠田氏が宮地に目を付けたのは小国などに豊富な竹の集積地としてです。工場も設け、筬やくじら尺、竹刀など竹材による半製品を宮地駅から東京、京都、名古屋などに送り出していました。駅から県道と交差、北に延びる道路が改良されたのは昭和10年のことで、それまでは農道でした。
駅前の東側には、市原製材所、渡辺製材所が設けられました。いずれも坂梨村からの進出でした
県道の北側にあった阿蘇中部高等小学校は大正11年廃校となり、阿蘇高女の仮校舎となっていましたが、豊肥線全線開通の翌月の昭和4年(1929)1月、跡地6,600平方㍍と校舎は一括して坂梨村の古木常七商店に払い下げられました。古木は荷馬車一台から財をなした人物で鉄道工事で小野田セメントの特約店となり、飛躍のきっかけをつかみました。2階建ての本校舎を店舗に改造、セメント、瓦、ガラス、畳表、肥料、農機具、石油、学生服などの衣料、雑貨も並べ、現金商売を通し、年の瀬ともなると、町内はもとより波野あたりからも牛を引いて正月の買い物に来る人々で賑わうようになりました。この店舗は昭和48年まで使われ、二階の講堂だった所に泰安殿がありました。
古木常七商店の所有地内に野尻屋という宿ができ、本店から独立した豊前屋(永松酒店)が移ってきて、黒塗りのシボレー1台の便利タクシー、森理髪店、上村米店も店開きし、古木常七商店の北側に小国の長尾製材所が進出しました。波野村の山部信博氏が5人の子供の教育のため昭和12年、野尻屋を買収、宮地に下りてきます。若乃屋と屋号を変え、妻のツルエに任せ、自分は全国をまたに牛馬の買い付けに回り、若乃屋も牛の競り市にやってくる仲買人で繁盛しました。
古木商店の向側、つまり駅前には生鮮食品、乾物、菓子などの佐藤商店、宮本肉屋が立ち並び町が形成されていきました。

参考

一の宮町史 豊肥線と阿蘇 ~近代の阿蘇~

カテゴリ : 文化・歴史
索引 :

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