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防火線

概要

広大な草原を一気に焼き払う野焼きは、極めて危険な作業です。燃え盛る炎は高温なうえに高速です。
平均的な草原(枯れ草の残存量が10㌃当たり5百㎏程度のススキ型草地)でも、野焼き時の温度は摂氏600~800度に達し、延焼速度毎分0.2~8mになるといいます。風向きや地形次第ではさらに延焼風速が増し(最大180mを記録)、もしも火に巻き込まれたら逃げる間もなく命を落とす可能性が高くなります。

安全策

そこで大切になってくるのが、いかに安全に野焼きを行うかということです。
牧野組合では実際に野焼きをする前に、まず防火線と呼ばれる無草地帯を確保、周囲への延焼を防いできました。この防火線づくりこそが、野焼きを行う上で最も重要で、もっとも手間のかかる作業です。
防火線づくりは、野焼きをする前年の夏から秋に行なわれます。草原と森林などとの境にある草を幅6~10㍍刈り払いますが、これを阿蘇では「輪地切り」と言っています。その数日後に枯れた草を焼いて防火線を完成させます。これを「輪地焼き」と言います。
この輪地焼きが行われる時期はまだ暑い時期に炎天下の下での重労働です。加えて、ほとんどの防火線が急斜面に作られるため、不安定な足場の悪さに作業は難航します。

旧藩時代の通達

一の宮町は江戸時代、肥後細川藩に属していました。その藩政府時代においても、野焼きをする際の防火線づくりは重要な課題の一つで、藩の貴重な財源である山林への延焼が幾度と無く発生していたからです。
藩政府は技術指導も含め、野焼きに関する様々な指示を与えてきました。その中の一つで、細川藩が出した北里手永における安政6年(1859)と元治元年(1864)の通達文が残されています。防火線づくりについて、具体的に、事細かく指示してあり、藩がいかに野焼きによる山林火災を恐れていたかが、窺える内容となっています。特に小国郷は、当時から林業が盛んで、藩の重要な林産資源を有していただけに、通達は極めて厳重な内容でした。

通達文(現代語訳)

北里手永の山林については原野面積が広いので、防火線設定には苦慮されていることと思う。野焼きのとき、防火線を突破した野火で、毎年木立が焼け枯れる事例が多い。特に、各人が数年間も手入れを尽くした山林が、一時に焼失することは残念な事である。今年からは概ね幅3.6m程の防火線を二重に刈払いし、中の島状態にしておく。もちろん、防火線は事前に焼いておき、春の野焼き前にこの中の島の場所を焼くことによって、三重の防火線の形となる。この方法で簡単に野火が防火線を飛び越すこともない。このような留意をした防火線の設定方法について重ねて通達する。-安政6年の記録-


防火線の刈払いについて特に留意する必要のある広い原野では、二重に防火線を設定することについて、毎年通達してきたが、所によっては守られていない所が見受けられる。このため、今年の春の野焼きでは野火が入った事例もあり、通達が守られていないのは遺憾である。今後は厳重に二重の防火線を設け、野焼きのとき十分注意されたい。今後不注意の野火で延焼することのないよう、厳しく通達する。-元治元年の記録-


以上のような藩政府の通達を受け、野焼きによる火災を防ぐための厳格な規制が各地で行われました。
まず、野焼きをする場所は切畑か牛飼場、肥草場、茅場と範囲を限定。一定の実施手順と日程を決めて、御代官、山奉行、郡奉行などに届け出る。また、野焼きは、「ムラ体制」の共同作業と定められ、個人的に行うことを強く禁止。これらに違反した場合は、仮に作業が無事終了したとしても厳重に処罰されたそうです。


カテゴリ : 文化・歴史
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