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阿蘇と修験道

根子岳

根子岳は、その昔「役の行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれたという伝説があります。役の行者とは役の小角(えんのおづぬ)という人で、大和の葛城山で苦行修行し、吉野の金峯山・大峰(きんぶせん・おおみね)を開いた人です。小角は精霊(鬼神)を自由に操り、衆望を集めたシャーマンであったため、文武天皇の3年(699)讒言(ざんげん)によって一時伊豆に流されたが、後に許されてますます評判を高めました。平安初期に天台・真言の密教的な面が山岳信仰に習合していった関係で、修験道が発展するにつれて役行者はその道の祖師と崇められ、山伏にとっては理想の修行者として崇拝されることになりました。
役行者は罪を許されたのち九州に下って豊前の彦山を開き、五十歳代の頃、阿蘇に来て根子岳を開きました。根子岳の3つのウド(谷)のうちのネコウドの奥の院で国家安全・国土安泰を祈りました。食物は木の根・草の実を常食としたので支障がなかったが、水がなかったので祈って水を湧かせたそうです。空を飛ぶこと鳥の如く、水上を渡ること地を歩くが如しと言われ、根子岳の絶頂から鳥のようにあちこち飛来し、天狗岩に立って火口を飛びまわったので、時の人は天狗と言い、(ある)いは火乱坊(がらんぼう)と呼んだそうです。
修験者達は厳しい修業によって神通力を得、常任の成し得ないような行動をとったので、人々は天狗と呼びましたが、それには火乱坊の外に高岳の太郎坊とか藤谷タントウ坊などの名が伝えられています。その高岳の太郎坊の末孫に行力の強い長善坊という人がいました。

加藤清正

時は加藤清正の朝鮮出兵の頃のことです。清正は朝鮮で大変な苦戦に陥っていました。清正は日本の阿蘇に向かい、「阿蘇大明神、何とぞ助け給え。」と祈りました。
長善坊はその日も阿蘇山上で修行していましたが、清正の姿とその祈りの声が雲間にありありと見え、聞こえました。長善坊は即座に紙に護符を書いたものを細かく切って口にふくみ、彼の地に向けて霧のように吹き出しました。するとその霧は幾百万の軍勢となって敵軍に向かっていったので、敵はびっくりして逃げ出し、清正は危ないところを助かりました。凱旋した清正は帰国後早速阿蘇山にお礼詣りに行き、坂梨の大山寺に隠栖していた長善坊を訪ねて厚く礼を述べ、「お礼に何かしてあげたい。」と望みを聞いたが長善坊は「何もいらない」と固辞しました。しかし清正が押して何かというので、「それでは寺を記念に作ってほしい」ということになりその結果、麓坊中西巌殿寺が再建されることになったそうです。

これと似通った話は阿蘇大明神にもあり、時は神功天皇の三韓出兵の時、阿蘇大明寺の神靈(しんれい)(神の御霊)が現れて皇后をたすけられました。その心靈は健軍宮に祀られて長く夷狄(いてき)(外敵)を防ぐために西向きに建っています。またその折に大明神につき従った彦御子神は甲佐宮に祀られ、その母神は郡浦神社に祀られたが、ともに夷狄を防ぐための神であると伝えています。

修験山伏の話は他にも多く、彦山から来た木連坊は行力深く、臥行(ざこう)千日目に立上がって第一にしたことが2本の生木の大木をつかみ寄せて、縄のようにより合わせたそうです。より合わせられた2本の木はそのまま繁ったのでそこを撚僧坂と言っています。この木練坊が阿蘇に来て最後の修行をつみ、或日御池の縁に座って御池の主のお姿を一目拝みたいと一心に般若心経を唱えていました。そこではまず御使いの鷹が現れ、次いで人、次いで僧、さらに小龍に続いて11面観音が出現されたが看過して神呪を唱えていると、御池の中から「御池の主はお前のような罪深い者の眼に触れるものではない」という声が聞こえました。木練坊は「自分は不動明王の侍者で、第六天の魔王にも畏れられている身であることを知らぬか」と言い返すと、一天我にかき曇り雷鳴・雷光の中に九頭八面の大龍が出現しました。頭は山より高く、尾は峰より長く、一面ごとに三眼が輝き、口より火を吐き木練坊を一呑にしようとしました。木練坊は内にあふるる大法念に身を託し、金剛杵を気合をこめて投げつけると大龍の正面の一眼に当たって火花が散ったと思うと空はおだやかに晴れ上がりました。しかし、下山の途中で大雨に遭い、小屋に入って美女にからまれ舌を切られ気絶してしまいました。不動明王に祈ってようやく元の姿になると、空中より声があり、「自分の真の正体は極楽では弥陀、娑婆では十一面観音である。それなのにお前が本地を見得ないのは何としたことだ」と告げられました。

山伏の修行には峰入りという行事があります。峰入り1回は新客と言い、回を重ねると先達となり、ついで大先達から阿闍梨(あじゃり)、最後に大阿闍梨と呼ばれるようになります。

参考

阿蘇ー自然と人の営みー

カテゴリ : 阿蘇の自然
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