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阿蘇奇瑞記(あそきずいき)

阿蘇山西巌殿寺(あそさんさいがんでんじ)には「阿蘇奇瑞記」という絵図が残っており、阿蘇の火山活動の様子を絵に表し、奇瑞(よいしるし)とされる噴火(ふんか)の様子が描かれています。

 昔、阿蘇の火山活動は、太宰府(だざいふ)を経て朝廷(ちょうてい)に知らされました。昔の人は、火口にある神霊池(しんれいち)の水の色や煙の色、その出方、勢い等の変化の仕方(しかた)を見て、吉凶(きっきょう)を占ったものと考えられています。

 火山の不思議さについては、こんなに科学が進んできた現在でも、まだ分かっていないことがたくさんあるのです。昔の人達が火山を神の霊の宿るところとして、恐(おそ)れ敬(うやま)う心が阿蘇山信仰(あそさんしんこう)となり、健磐龍命(たけいわたつのみこと)(阿蘇大明神)に対する信仰と結びついていったことは容易(ようい)に考えられることなのです。

 このような信仰が中央政府(ちゅうおうせいふ)とのつながりを深くしました。山岳信仰(さんがくしんこう)(阿蘇山信仰)は後に修験道(しゅげんどう)となり、麓坊中(ふもとぼうちゅう)(現在の阿蘇市黒川)には衆徒方(しゅうとかた)二十坊、行者方(ぎょうじゃかた)十七坊の坊舎(ぼうしゃ)が立ち並ぶまでになりました。また、山伏(やまぶし)は衆徒方と行者方に分かれ、50とも60ともいわれる庵(あん)に住みました。

 ですから、当時は少なくとも80から90を越えるお寺が栄えていたわけです。しかし、衆徒方・行者方はお互いに反目(はんもく)し合い、争いごとが絶えませんでした。

 西巌殿寺というお寺のあるあたりは坊中(ぼうちゅう)といいますが、阿蘇山上の古坊中(ふるぼうちゅう)に対して麓坊中と呼ばれたのです。古坊中は島津・大友氏の戦火(せんか)に巻き込まれ、消滅(しょうめつ)したとも伝えられていますが、はっきりしていないようです。

 明治5年(1872)の修験道廃止令(しゅげんどうはいしれい)により各坊は廃寺(はいじ)となりました。もともと、三十七坊全体をさして西巌殿寺と呼んでいたのですが、各坊がなくなった時、今の芦北町(あしきたまち)にあった法雲寺(ほううんじ)を現在地に移し、阿蘇山西巌殿寺という名を復活させたのです。

参考

くらしのあゆみ 阿蘇 -阿蘇市伝統文化資料集-


カテゴリ : 文化・歴史
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