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阿蘇酪農組合

長谷貢氏と阿蘇酪農組合

長谷貢氏は戦前に松田農場に一年間専修科生として研修を積みました。
終戦を旧満州の開拓団で迎え、宮地に引き上げて農事に従事していました。「日本農業の聖人」や「昭和の農聖」と敬われ、卓越した実践力と精神力は、戦後の青年農業者を魅力的に引き付けていました。先生の言葉に「人並みでは人並み、人並み外れにゃ外れん」とか、畜産のことを「台風に吹き飛ばされん作物」と魅力ある表現をして、青年の心を引き付け指導されました。戦後の食料危機の時、この農魂を叩きこまれた情熱的な青年がリーダーとなって動き、昭和21年に酪農経営を先駆的に取り組みました。
この人々は宮地駅の長谷貢・山部広・竹石高・高橋恵・中島和彦・岩下義輝(古城)の青年でした。戦後の食糧難の中で、国民の健康保持と体位の向上、特に乳幼児向けの牛乳の確保が急務でした。政府は「畜産5ヶ年計画」を策定しました。内容は「耕種農業と1~2頭の乳牛を組み合わせた有畜農業の推進」でした。
乳牛(ホルスタイン種)の購入は、当時熊本県における乳牛の集散地で知られた天草郡大矢野町から、各人1~2頭を購入しました。トラックに枠を作り二頭積み、蓄主となった青年は同じ荷台で手綱を握り、はるばる阿蘇へと運びました。この他に竹田市郊外の開拓団に入植して酪農を実践していた大塚昇氏(元松田農場教官)からも購入しました。
ほとんど成牛の購入で、すぐに搾乳が始まりましたが、乳の殺菌処理施設がないため、当時立野駅前にあった佐藤牛乳店に処理と販売を委託しました。牛乳の輸送は牛乳缶(18㌕)2~3本を宮地駅より客車に積み、生産者が交替当番で運びました。しかし、輸送量に限界があり夏の高温時には変質の心配もありました。

阿蘇農業高校(現阿蘇中央高校清峰校舎)

組合の名称は「阿蘇酪農組合」としました。組合では乳の処理問題を打開する対策として、地元にある阿蘇農業高校(現阿蘇中央高校清峰校舎)の畜産加工室で処理を依頼することとしました。当時は大滝謙二校長で、東京農大で畜産を専攻していました。「地域の産業と農業校が一体化することは学生の教育現場にもなる」と判断し、施設の整備のうえ、牛乳の殺菌と瓶詰め処理が開始されました。1日の処理量は最初は少なかったが、後では500㌕にも達しました。初期の販売は病院や子どものいる家庭で、配達は生産者が地域を分担したが、後では専任配達員5名に委託しました。消費者からは新鮮で美味しいとの評判で、情熱を燃やした酪農青年も意気軒高でした。このころは、組合員の相互扶助の精神と結束が強く、例えば牛の分娩や病気のときは、全員集合して助け合いました。牛の飼育管理の指導には、阿蘇農業学校の畜産教諭であった染川先生の指導を受け、技術は次第に向上していきました。
牛乳の生産者価格は1㎏約40円、消費者価格は一合瓶(180cc)9~10円。他の農産物に比較して高い水準であり、所得も安定していました。酪農に希望を持った新規の農家が生まれて、乳量が増加してくると、乳の生産量と消費量が季節的に不均衡となり、乳の処理能力も阿蘇農業学校では次第に困難となりました。
昭和25年頃に坊中駅(現阿蘇駅)近くに農協連合による牛乳処理工場が建設されるまで、阿蘇農業学校の施設は地域に貢献しました。

参考

阿蘇一の宮町史 戦後農業と町村合併

カテゴリ : 文化・歴史
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