概要
阿蘇惟澄(あそこれずみ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した武将で、南朝方の阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)です。生年は延慶(えんぎょう)2年(1309)ごろとされ、正平(しょうへい)19年=貞治(じょうじ)3年(1364)9月29日に没しました。阿蘇氏の庶流(しょりゅう)である恵良氏(えらし)の出身で、晩年に阿蘇氏の家督(かとく)を継ぐまでは恵良惟澄(えらこれずみ)と名乗っていました。元弘(げんこう)の変(1331~1333)以来、南北朝内乱の初期から南朝方として各地を転戦し、正平16年=延文(えんぶん)6年(1361)に征西府(せいせいふ)から大宮司として認められました。
由来・起源
惟澄は、阿蘇氏の庶家(しょけ)である恵良氏の恵良惟種(えらこれたね)の子として生まれました。恵良家はもともと阿蘇氏の嫡流(ちゃくりゅう)でしたが、惟澄の祖父にあたる阿蘇惟資(あそこれすけ)の代に罪を犯して勘当(かんどう)・闕所(けっしょ)処分を受け、庶流に転落したと伝えられています。このため阿蘇氏の家督は惟景(これかげ)の三男・阿蘇惟国(あそこれくに)の系統へ移り、恵良家は阿蘇谷から離れた甲佐神社(こうさじんじゃ)周辺を所領とすることになりました。惟澄が生涯の大半を「恵良」の名で通したのは、この出自によるものです。
大宮司惟時(これとき)の娘婿(むすめむこ)となったことから、惟時とは岳父(がくふ)と婿(むこ)の関係にあり、正平16年=延文6年(1361)には惟時の婿養子(むこようし)として阿蘇氏の家督を継承しました。
歴史的経緯
鎌倉末期~建武の争乱
元弘3年(1333)、惟澄は幕命により楠木正成(くすのきまさしげ)の籠る千早城(ちはやじょう)攻めに加わるため出陣しましたが、その途上で護良親王(もりよししんのう)の令旨(りょうじ)を受けて官軍方に転じたと伝えられています。日向(ひゅうが)鞍岡(くらおか)(現・宮崎県)に拠って守護(しゅご)規矩高政(きくたかまさ)の軍勢と戦ったこと、大宮司惟直(これなお)とともに有智山(うちやま)合戦に加わったことも、この時期の戦功として記録されています。
建武3年(1336)、九州に落ちてきた足利尊氏(あしかがたかうじ)を迎え撃った多々良浜(たたらはま)の戦いでは、当主惟直とその弟が討ち死にしましたが、惟澄は生き延びました。前当主惟時が在京していたことから、尊氏は惟時の庶子(しょし)である坂梨孫熊丸(さかなしまごくままる)を阿蘇大宮司に任じています。惟澄はこの人事に反発し、以後、阿蘇氏一族は分裂状態に入りました。
南朝方としての転戦
延元(えんげん)2年=建武4年(1337)以降、惟澄は菊池氏とともに、南朝勢力の再興のため九州に下向した征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)(懐良親王(かねよししんのう))を擁立し、九州探題(たんだい)一色範氏(いっしきのりうじ)の軍と交戦しました。益城(ましき)・阿蘇・八代(やつしろ)・球磨(くま)などを一族・他門とともに転戦し、肥後北部と南部の南朝方勢力の接点として活動したと伝えられています。興国(こうこく)元年=暦応3年(1340)には肥後国南郷城(なんごうじょう)で坂梨孫熊丸らを討ち取りましたが、今度は岳父惟時が少弐氏(しょうにし)と結んで惟澄と敵対し、内紛は続きました。興国7年=正平元年=貞和(じょうわ)3年(1347)には北朝方の少弐氏・大友氏(おおともし)の攻撃を撃退しています。
正平3年=貞和4年(1348)ごろ、南朝勢力から筑後権守(ちくごのごんのかみ)に任じられました。江戸時代に塙保己一(はなわほきいち)が編纂した『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』に収められて著名な「阿蘇大宮司惟澄申状(もうしじょう)」(恵良惟澄軍忠状、原本は『阿蘇家文書(あそけもんじょ)』所収)は、前年に肥後入りしたばかりの征西将軍宮に対し、元弘以来の自らの戦功を申し上げたものです。
大宮司就任と大宰府制圧
正平10年=文和(ぶんな)4年(1355)に惟時が死去しましたが、惟澄はまだ大宮司職を得ていませんでした。軍事的な実績を重ねた惟澄には菊池氏らの信望が集まり、阿蘇家中と敵対していた菊池氏は、惟澄を通じて阿蘇家の分断を図り、北朝方との戦いを有利に進めていったとされています。正平16年=延文6年(1361)、惟澄は菊池武光(きくちたけみつ)と協力して大宰府(だざいふ)の制圧に成功し、九州における南朝勢力は最盛期を迎えました。このとき征西府は初めて惟澄を大宮司として明確に認め、惟澄も惟時の婿養子として家督を継承しています。これに対し北朝方の足利義詮(あしかがよしあきら)・大友氏時(おおともうじとき)らは反発し、惟澄の長男(養子出身)である恵良惟村(えらこれむら)を大宮司に指名し、北朝方の阿蘇惟村(あそこれむら)大宮司を成立させました。
晩年と後継をめぐる対立
正平19年=貞治3年(1364)、死期を悟った惟澄は、それまで北朝方として対立してきた長男惟村に大宮司職を譲ることで内紛の終結を試み、その2か月後に没しました。享年55と伝えられています。
しかし惟澄の死後、阿蘇家の分断をねらう菊池武光は、惟澄の次男に「武」の字を与えて阿蘇惟武(あそこれたけ)と名乗らせ、惟村大宮司と対立させました。征西府も惟村の家督相続を承認しなかったため一族内の対立は再燃し、北朝方の惟村と南朝方の惟武がそれぞれ大宮司を称して並び立つ状態が室町期を通じて続きました(惟村の子孫は益城郡、惟武の子孫は阿蘇郡を支配)。両流の統合は、宝徳(ほうとく)3年(1451)に惟村系の惟忠(これただ)が惟武系の惟歳(これとし)を養子に迎えることで実現しています。
現在の状況
惟澄自身の事績を直接示す指定文化財は確認されていませんが、その戦功を伝える『阿蘇家文書』は国の重要文化財に指定されており、熊本大学附属図書館などに所蔵資料が伝わっています。
惟澄にまつわる伝承として著名なのが、大太刀「蛍丸(ほたるまる)」の物語です。江戸時代の刀剣書『刀剣或問(とうけんわくもん)』(寛政9年〈1797〉)によれば、惟澄は多々良浜の戦いで来国俊(らいくにとし)作の大太刀を振るい、刃こぼれした刀身が一夜のうちに蛍の群れのように光を集めて自然に修復されたと伝えられています。この蛍丸は阿蘇神社の宝刀として伝えられてきましたが、太平洋戦争後の混乱で所在不明となりました。平成27年(2015)には有志による「蛍丸伝説プロジェクト」がクラウドファンディングを実施し、約4,512万円の支援を得て復元刀を制作、平成28年(2016)熊本地震後の阿蘇神社復興とも重なりながら奉納が進められました。なお、蛍丸をめぐる逸話は史実の考証がなされた記録ではなく、後世に形成された伝承として伝わっている点に留意が必要です。
よくある質問
Q. 阿蘇惟澄はどのように読みますか? A. 「あそ これずみ」と読みます。晩年まで「恵良惟澄(えら これずみ)」を名乗っていました。
Q. 阿蘇惟澄はなぜ「恵良」と名乗っていたのですか? A. 惟澄の家系である恵良氏は、祖父の代に罪を得て阿蘇氏の家督から外れた庶流であったためです。正平16年=延文6年(1361)に惟時の婿養子として家督を継ぐまで、恵良の名を称していました。
Q. 惟澄の死後、阿蘇家はどうなりましたか? A. 長男惟村(北朝方)と、菊池武光が擁立した次男惟武(南朝方)がそれぞれ大宮司を称して対立し、宝徳3年(1451)に両流が統合されるまで並立状態が続きました。
関連項目
参考文献
- 阿蘇品保夫「阿蘇惟澄」『世界大百科事典』平凡社
- 「阿蘇惟澄」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
- 熊本日日新聞編纂・発行『熊本県大百科事典』1982年
- 『阿蘇家文書』(国指定重要文化財、熊本大学附属図書館蔵)
- 熊本の風土とこころ編集委員会『熊本の人物』熊本日日新聞社、1980年
- 阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社、2007年
- 蛍丸伝説プロジェクト実行委員会「蛍丸伝説をもう一度!大太刀復元奉納プロジェクト」(CAMPFIRE、2015年11月~2016年1月実施)