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文化・歴史

歴史講演会「古坊中と麓坊中」

本ページは、阿蘇カルデラーリズム推進協議会が主催した歴史講演会の記録です。 講師・佐藤征子先生による講演の録音内容を全文掲載しています。

開催概要

項目 内容
講演タイトル 古坊中と麓坊中
開催日 令和7年(2025)11月25日(火)
時間 15:00〜17:00
場所 阿蘇山西巌殿寺(阿蘇市黒川1114番地)
主催 阿蘇カルデラツーリズム推進協議会
協力 ASO碧水会
お問い合わせ 協議会事務局(阿蘇市観光課)0967-22-3174

講師プロフィール

佐藤 征子(さとう せいこ)先生 元熊本県文化財保護審議会委員

甲佐町生まれ。東京教育大学文学部史学科卒。市町村史の編纂委員として阿蘇町史・一の宮町史・波野村史・熊本市史などを執筆。

主な論文

  • 「三十七坊の変遷」
  • 「阿蘇山と龍神宿仰」
  • 「豊作を祈る農耕祭事」
  • 「外来王小考」
  • 「護法童子」

ほか多数


講演の概要

阿蘇山は、昔から人々の「祈りの場」でした。大昔は噴火を神の力と考え、やがて仏教修行の聖地となって「古坊中」として栄えました。戦国時代の戦乱に巻き込まれるも、加藤清正がふもとに「麓坊中」を再興。現在まで時代を超えて続く、阿蘇の知られざる信仰の歴史をたどります。

資料


録音内容(全文)

第一部:古坊中(山上坊中)の歴史と実像


はじめまして、佐藤と申します。よろしくお願いします。

熊本県文化課が1979年に文化庁の補助事業で「古坊中(ふるぼうちゅう)」の発掘調査を実施する予定でした。予算は決まっていました。ところが、当時、火山活動が活発になって、発掘調査が行われなくなりました。発掘調査の代わりに周辺調査を行うことになり、私も参加しまして、文献調査と聞き書き調査を致しました。西巌殿寺には鷲岡慶照ご住職がいらっしゃいました。鷲岡ご夫妻にはとてもお世話になり、車を境内に置かせて頂き、坊縁の方々のお宅を訪問致しました。どのお宅でも見ず知らずの訪問者に対して親切に応対して頂きました。皆様に深く感謝申し上げます。その後、現在に至るまで古坊中の調査は行われていません。是非、地元からの要望で、文化庁の補助事業として調査を行って欲しいと思っています。中止になって以来40数年も経っています。

現在、山上に行きますと、かつての古坊中跡がヘリコプターの発着場とかバスの発着場になっているのを見ると、悲しい気持ちになります。ここはかつて宗教の場であったわけです。火口だけ見ればいいというような状態ですけども、僧や山伏が修行に励んでいた場所であることを思い出してほしいと願っています。今日はそういう私の思いが皆様に伝われば幸いです。

「坊中」といいますのは、多くの修行僧の坊が建ち並ぶ組織された状態を指します。山上に坊がたくさん並んでいた時代を、「古坊中(ふるぼうちゅう)」といいます。前半は山上時代のことをご紹介いたします。後半に、麓に坊が組織された「麓坊中(ふもとぼうちゅう)」のことをお話ししたいと思います。

まず、古坊中についてご紹介致します。パワーポイントを使ってお話し致します。パワーポイントの画面は印刷してあります。お配りしました資料も合わせて参考にご覧下さい。

阿蘇山と中国の記録

阿蘇山のことは日本の歴史書よりも早く、中国で紹介されています。中国に「隋(ずい):(581〜681)」という時代があり、『隋書』倭国伝に阿蘇山の事が書かれています。資料の1頁に紹介しています。「阿蘇山あり。その石故なくして火起こり、天に接する者、俗以て異となし、因って祷祭を行う。如意宝珠あり、その色青く大きさ鶏卵の如く、夜は光り魚の眼精なり」と載っています。当時、推古天皇の摂政として活躍した聖徳太子(574〜622)の時代です。日本から隋へ遣隋使を5回派遣しています。それに対して隋からやってきた人物が見聞あるいは聞いたことを報告しているのだと思います。『隋書』で、日本の山を紹介しているのは阿蘇山だけです。中国の人がとても関心を持って書き連ねているわけです。私たちも阿蘇山に対して日本を代表する山、火山だと誇りを持っていいと思います。

南郷の長野村では如意宝珠の話は語り続けられていたみたいです。と申しますのは、長野内匠が慶應2年(1866)に書いた「南郷事蹟考」に「山中ニ如意宝珠アリト云伝、其故ニ當郡中ハ闇夜ニモアカシト云ヘリ」という記述があります。聖徳太子の時代から1200年以上も経っています。現在はそういう話は伝わっていないかもしれませんけれども、噴火口は神秘的なものと考えられていたため、如意宝珠の話が伝えられていたのだと思います。

江戸時代、幕府に仕えた本草学者の丹羽正伯(1691〜1756)が、中国の歴史書に明の時代の皇帝、永楽帝(1360〜1424)が阿蘇山に如意宝珠があることを讃えて阿蘇山を「壽安鎮国山」と名付けて文を建てたという記述があります。現在はどういう状況かと享保20年(1735)に細川藩に尋ねました。細川藩では残念ながら、現存しないと返答しています。橘南谿(1753〜1805)という医者が全国を巡って『西遊記』と『東遊記』を書いています。『西遊記』の中に「壽安鎮国山」の額の記述があります。資料2頁をご覧下さい。「大いなる堂あり。内に額あり、壽安鎮国山と書けり。是はもろこしの帝より、むかし此山の霊威ある事を聞き給ひて、この五文字をもて山を奉じ給ひしなり。堂は傾き損じたり。人はもとより住むべき所にあらず。むかし是より下つかたに寺院多くありといふ」と記述しています。江戸時代の半ば頃に「壽安鎮国山」と書いた額が残っていたのです。

平安時代の阿蘇山信仰

阿蘇山噴火活動に対して、平安時代、朝廷では噴火口を神霊池と呼び、その涸渇や沸騰という異変に対して全国の寺社に対して祈祷を命じ、貧しい民への施しを行っています。貴族たちも噴火活動のことについて、一喜一憂しています。その一つをご紹介します。平安時代後期の歌人・源俊頼(1052〜1129)は「世にわびて 浪たちまちに 有るなれど あそのみ池に 幣たてまつる」と詠っています。資料2頁に紹介しています。

加賀の白山(はくさん)をご存知ですか?山岳信仰が盛んな山です。白山を信仰の山としたと伝えられているのは泰澄(たいちょう)という人です。泰澄が阿蘇山に参詣したという言い伝えがあります。阿蘇山上の池より九頭龍が出現したが、泰澄が折伏すると千手観音となったと記述されています(参照:資料4頁)。彦山(ひこさん)の座主に木練という僧がいます。木練は後に法蓮(ほうれん)と称します。木練の阿蘇登山が「彦山流記」に書かれています。木練は宝池の主を見たいと山上で法華経を読誦すると、九頭八面の大龍が出現します。これで主を見たと山を降ります。途中立ち寄った山小屋で、木練は女性(実は大龍)の誘惑に負けます。気を失っていると、空中から再度登山を勧める声に促され、山上で十一面観音の姿を拝んだと記述されています(参照:資料4〜5頁)。木練は九州の山岳で修行をしたとありますが、記述されているのは阿蘇山だけです。泰澄と木練の話は阿蘇山が当時、多くの修行者にとって修行すべき山として信仰されていた事が窺えると思います。

阿蘇山の開山・最栄について

阿蘇山を開山したのは最栄(さいえい)です。最栄について二説あります(参照:資料5頁)。一説は天竺の毘舎利国あるいは舎衛国からやってきた最栄が健磐龍命の姿を感得して、本地仏として十一面観音を造って祀り始めた。最栄の旧室を「西巌殿(にしのいわと)寺」と呼び、本堂としたと伝えられています。別の説では最栄は比叡山の慈恵大師(じえたいし)の弟子にあたるといわれます。最栄が天養元年(1144)に、阿蘇大宮司友隆の許可を得て阿蘇山に居住し、法華経を読誦したという説です。慈恵大師は比叡山第18代座主で、有名な僧侶です。お経を読誦していると、影の姿に角が出ていると伝えられ、角大師とも呼ばれています。比叡山に参拝されますと、角大師の刷り物が魔除御札として頒布されています。坊中の西巌殿寺本堂の外陣に最栄読師坐像と慈恵大師座像が祀られていました。ご存知の方も多いと思います。ところが、平成13年(2001)9月22日夜、本堂の火事で焼失致しました。残念です。

天宮祝と僧侶の争い

平安時代、噴火口を神霊池と呼び、健磐龍命の神座として祀られていました。神事を担当したのは天宮祝という神職です。天宮祝忠次と阿蘇山に居住している僧侶との間に争いがありました。建久6年(1195)、北条時政が沙汰を下して、御峰に上がる御花米は僧侶の取り分とし、奉幣や神馬は天宮祝とするとしました。当時、山上で修行している僧侶たちの存在が窺える最古の史料です。「阿蘇宮由来略」によりますと、阿蘇大宮司惟行が永長元年(1046)に笠忠久を天宮祝に任命しています。この忠久と忠次は名前から考えますと多分関連があるのではと思います。天宮祝については、資料2頁から3頁にかけて紹介しています。

衆徒・行者・山伏の三つのグループ

阿蘇山には「衆徒(しゅと)」と「行者(ぎょうじゃ)」それから山伏という3つのグループがありました。衆徒によって阿蘇一山の運営が行われ、その下に行者、そして衆徒と行者はそれぞれ山伏を配下にしていました。行者は久住とも言われています。資料6ページに衆徒と行者について詳しく書いておりますので、お帰りになった時でもよろしいのでどういう役割だったかご覧下さい。行者は山伏と共に峰入りを行い、各地の信者に摺物を配ったりしています。衆徒の活躍の様子が窺える史料があります。元亨元年(1321)に菊池や合志からの御初米が衆徒の衣装料とされています。延元2年(1337)には後醍醐天皇が衆徒宛に祈祷を依頼しています。これらの史料から1300年代には山上の衆徒は広くその存在が知られていたということが分かります。

阿蘇一山は衆徒による「内談」という話し合いによって運営が行われていました。衆徒と行者の住まいは「坊」で、権利を持つ「坊職」の数は決まっていました。衆徒は20坊、行者は17坊で、阿蘇氏の許可を得て坊職が引き継がれました。この事を「安堵」といいます。阿蘇氏の安堵状が必要なのです。各坊には修行を共にする弟子の僧がいました。さらに衆徒及び行者に従う山伏によって阿蘇一山は運営されていました。山伏の住まいは「庵」といいます。山伏は決まった権利がありませんから、庵の数は一定していません。52庵とか62庵とか伝えられています。衆徒に対して行者と山伏の関係はうまくいかない面があり、行者と山伏が共に阿蘇から下山する事もありました。

本堂造営と棟別銭

山上で中心となるのは本堂です。本堂造営についての史料は正平17年(1362)の史料が最も古い史料です。文明4年(1472)には肥後国守護の菊池重朝の主導によって造営が行われています。文明4年の本堂造営費用を村毎に集めた史料が残っています。造営費用は棟別銭(むねべつせん)と言って、家(軒)を単位に10文ずつ集められています。当時の阿蘇郡内の家の数が分かります。

阿蘇谷の棟別銭(文明4年)

地区 軒数 棟別銭
阿蘇四面内(阿蘇社がある場所) 975軒 9貫750文
坂梨 350軒 3貫500文
北坂梨(野中・豆札) 300軒 3貫文
阿蘇品(古家・牛峰・荻迫・隈崎) 200軒 2貫文
手野 200軒 2貫文
山田・あい野・小蔵 200軒 2貫文
湯浦 250軒 2貫500文
狩尾・的石 100軒 1貫文
竹原・黒河 450軒 4貫500文
阿蘇谷合計 3,025軒 30貫250文

その他地域の棟別銭

地区 軒数 棟別銭
小国 3,386軒 33貫860文
南郷 4,405軒 44貫50文
野部(矢部) 5,490軒 54貫900文
甲佐 2,266軒 22貫662文
中山・海東 1,930軒 19貫300文
砥用 1,781軒 17貫810文

宿坊と女人禁制

山上の衆徒と行者の坊舎は参詣者の宿坊になります。今でも高野山の坊舎は宿坊になります。かつては阿蘇山でも山上の坊舎は宿坊でした。阿蘇山へお参りに来て、女性も泊まっていました。ところが、正平7年(1352)に10歳以上60歳未満の女性は尼といえども止宿禁止の命令が阿蘇氏から出されます。衆徒及び行者は起請文で女性を止宿させないと誓っています。女性が山上までよく登ってきたなと思います。阿蘇山に登り参拝することによって救われるという気持ちがあったのでしょう。

永享3年(1431)に衆徒や行者が守るべき阿蘇社規式が定められました。峰入りは怠る事なく行う事、衆徒の配下の山伏も峰入りは行者の支配下にあると衆徒・行者・山伏の関係が記されています。

鹿渡橋と湯屋

阿蘇山上には南郷から上っていました。南郷から山上に上る時に橋を渡らなければなりませんでした。橋について、「鹿渡橋」と史料に書かれています。"しかわたり"と呼ぶのか分かりません。この橋が洪水によって文明10年(1478)に落ちてしまい、文明13年に再興されます。この造営に山伏が大活躍をします。参詣者は橋賃が免除されましたが、通行人からは心づけ次第としていました。「鹿渡橋」は一体どこに架っていたのだろうかと随分前から気になっています。橋の名前に「鹿」が含まれています。周辺に「袋鹿蔵:フクロガクラ」と「鹿洗:シカアライ」と鹿がつく地名があります。黒川を下ると「数鹿流ケ滝:スガルガタキ」があります。多くの研究者がこの橋はどこに懸っていたのだろうと検討していますが、まだ場所は分かりません。

湯谷に湯屋もありました。天授3年(1377)に棟上げをしています。文明15年(1483)に湯屋の材木を注文した史料があります。南郷・地獄あたりでは温泉があります。阿蘇に参拝した後は湯屋で汗を流したのかもしれません。南郷では酒も作り、売買を行っています。値段は新酒より極月(12月)までは25文、1月から3月までは33文、4月中は40文、5月よりは50文と値上がりしています。今では南郷で酒は造られていませんが、かつて造っていたのです。

戦国時代の動乱と古坊中の終焉

阿蘇一山はまとまりを持った集団でしたが、阿蘇氏の支配下に置かれていました。阿蘇氏の動向が山上の衆徒や行者及び山伏にも影響がありました。山上の噴火口の異変は一大事です。変化が生じたら必ず阿蘇大宮司へ報告していました。

山上の坊中の運営はうまくいっていましたが、時代の変化があり、山上も巻き込まれていくわけです。戦国時代になると、隣国の大友氏が勢力を伸ばし、大友氏の肥後支配が始まると、山上の坊中からも大友氏の許へ駆けつけるという状況になります。ところが、天正6年(1578)に日向耳川の戦いで大友氏が島津氏に敗れます。島津氏は同13年になると矢部の浜の館にいた阿蘇氏攻略を始め、翌14年に阿蘇氏は矢部の目丸山中へ落ちていきました。天正15年3月に豊臣秀吉が島津氏を抑えるために九州へ進出し、4月に肥後南関に入ったという知らせを聞いて、島津氏と交流があった阿蘇山上の衆徒や行者・山伏たちは山から諸方へ落ちて行きました。山上から下りたまでの時代のことを「山上坊中」とか「古坊中」と言っています。古坊中は昭和になって戦後、牧野になったり、スキー場ができたりしました。そして最初に申し上げました様に決定していた発掘調査が行われずに歳月が流れています。

古坊中地形図について

皆さんにお配りした資料31頁の古坊中地形図をご覧下さい。昭和6年(1931)に熊本で行われる陸軍特別大演習統監に昭和天皇が行幸され、11月11日から19日まで熊本に滞在され、17日に阿蘇社参拝と阿蘇山登山が予定されました。前年5年6月に熊本県技官本山又蔵氏が阿蘇登山道路の調査を行い、山上の「古坊中地形図」を作成しました。31頁の古坊中地形図がそれです。34頁の表は「古坊中地形図」から区画の面積を推定した表です。区画は衆徒と行者の坊舎及び山伏の庵と推測でき、古坊中が営まれた状況が想像出来ます。33頁の写真は昭和32年(1957)12月20日雪の日に飛行機からの撮影です。区画が浮かんで見えますでしょう。この区画が衆徒及び行者の坊及び山伏の庵の跡と推測されます。合わせて32頁の空中写真もご覧ください。35頁の拓本の写真は弘治2年(1556)に山上に残された逆修です。実は山上には古坊中縁の遺物がもっとたくさんあったと言われていますが、山上に来た人が持ち帰ったそうです。残念です。


(事務局) それでは、一部をこれで一回止めて、5分間の休憩に入りたいと思います。今先生がお示しいただきました地形図の図面が実際にそこの廊下で展示してあります。阿蘇測量さんが昔、測量したということで家からお持ちいただいております。貴重な資料で、今日だけは閲覧できるということで。ここの廊下に展示してありますのでご覧ください。


第二部:麓坊中(ふもとぼうちゅう)について


加藤清正による麓坊中の復興

秀吉は天正15年(1587)5月に島津氏を降伏させ、同年6月に佐々成政が肥後に入国します。しかし成政は検地の断行などの失政を秀吉に咎められて、翌16年閏5月に切腹を命じられます。秀吉は球磨を除く肥後の北半分を加藤清正に南半分を小西行長に与えます。秀吉は九州平定後、大陸侵攻を目指して、天正20年(1592)3月に朝鮮出兵を命じます。ところが、慶長3年(1598)に秀吉が死去し、出兵していた清正達は朝鮮から帰国します。帰国後、翌4年に加藤清正は麓坊中復興を命じます。清正の判物には長善坊(ちょうぜんぼう)が宛先になっています。加藤清正と交流があった長善坊は長善坊契雅です。長善坊契雅坊は阿蘇山上から坂梨の大山寺に落ち、清正の為に武運祈祷を行っていましたが、文禄3年(1594)に亡くなっています。阿蘇市黒川の善応寺観音堂に墓があります。

長善坊契雅の祈祷力に対して帰依する武士が多かった様です。資料13頁に紹介していますが、『相良家文書』に戦国時代、相良氏の支配下にあった芦北の有力武将・薗田氏に年頭の「御家内平安御祈祷」の札を長善坊契雅配下の山伏が届けるという史料が収録されています。江戸時代、細川氏になって、相良藩と細川藩との境目にあたる葦北に見張り番所が設けられます。見張り番所の役人を務められた家に江戸時代の長善坊の札が残っています。長善坊は球磨から芦北にかけて長い期間御札を納め続けていたということが分かります。『肥後国誌』に寛永14年(1637)天草・島原の乱の時、細川藩の長岡監物是季(米田是季)と長岡佐渡守興長(松井興長)が連名で、阿蘇山長善坊宛に祈祷依頼をした史料が収録されています。

衆徒と行者は上の坊・中の坊・下の坊と分かれていました。長善坊はかつて中の坊でしたが、天正年中、寺社散乱の時に長善坊契雅のみ残って神仏に奉仕した功で、慶長再興の時、上の坊扱いになったと伝えられています。坊中の長善坊跡に加藤清正が植えたと伝えられる公孫樹(いちょう)があります。

(追加)復興の苦労

清正は黒川村に坊中復興を命令しましたが、衆徒・行者・山伏は復興には大変苦労しました。延宝3年(1675)に年行事だった衆徒得善坊が振り返っています。

「御扶持方居屋敷等御拝領成シ被下候、其節當地も荒畠、或野原、或御百姓之屋敷も少々ハ御座候つる、然共、竹木少も無御座候、然處ニ我々先師竹木を植置、當時寺家建立之助成ニ少々成申事ニ御座候、然共、壁木剪申たる跡ニハ、又候哉、若木を植置、自今以後之爲修理と存、何も其心懸迄ニて御座候」 (『西巌殿寺文書』271号)

寺領の配分

麓に坊中が再興された後、衆徒も行者もそれぞれ寺領(じりょう)を宛がわれます。清正時代の寺領高の史料はありません。資料14頁をご覧ください。寛永10年(1633)正月7日付けで細川氏寺社奉行が出した史料です。この史料は先規に基づく寄進とありますから、清正の寄進と同高であったと推測されます。細川忠利の肥後入国は前年寛永9年12月9日です。衆徒20坊に189石2斗、行者17坊に160石8斗です。寺領については衆徒と行者の差は殆どありません。衆徒と行者は上の坊・中の坊・下の坊と三段階に分かれて、寺領が与えられます。なお、この史料には阿蘇神主358石3斗4升、阿蘇社社家166石5斗8升、大山寺5石の記載もあります。大山寺は山上から落ちた長善坊がいたお寺です。宛先は阿蘇宮・長善坊・寺社中となっています。

(追加)寺領高の詳細

内訳 石高
衆徒20坊 上の坊(7坊) 12石5斗
衆徒20坊 中の坊(7坊) 9石6斗
衆徒20坊 下の坊(6坊) 5石7斗5升
行者17坊 上の坊(4坊) 11石
行者17坊 中の坊(8坊) 10石
行者17坊 下の坊(5坊) 7石3斗6升

修験道法度と宗派対立

徳川幕府は中世から戦国時代にかけて活躍した山伏に統制を加えます。慶長18年(1613)に「修験道法度」を出します。天台系修験は本山派、真言系修験は当山派のどちらかに所属することが決められます(資料19頁)。阿蘇一山は天台宗です。ところが、行者や山伏は本山派ではなく、当山派に属します。寛永5年(1628)に阿蘇神主(惟善)が清正の家臣・加藤越後万兵衛に行者が当山方の大峰の峰入りに同行したと報告しています。行者が当山派に属したと分かる最初の史料です。行者と山伏が真言系の当山派に属したという事は衆徒と行者がうまくいってなかったということを象徴しています。お互いに対抗意識があったと思います。なお、阿蘇神主は幕末まで行者寄りの姿勢が窺われます。

寛永7年(1630)6月、阿蘇惟善が内山永久寺宛に加藤肥後守忠広の母の病気快癒の為に、行者の鏡珍坊と了忍坊を峰入りに同行させてほしいと依頼しています。同年8月に内山永久寺から阿蘇神主宛に護摩祈祷が無事に終わったことを報告しています。その翌年には忠広の為の大護摩祈祷に行者の鏡善坊と道場坊が内山先達に同行しています。内山永久寺は当山派の代表的な寺で、石上(いそのかみ)神宮の神宮寺として、永久2年(1114)に鳥羽天皇の勅願によって創建されました。鎌倉時代の仏像・仏画を多数所蔵していましたが、明治初年の廃仏毀釈によって壊滅的な被害を受け、宝物は散逸しました。現在、内山永久寺旧蔵の仏像・仏画は国指定文化財となっています。かつての内山永久寺の壮大な伽藍が「和州内山永久寺之図」(和歌山県立図書館蔵)によって偲ぶことが出来ます。

山上の堂社

麓に衆徒と行者の坊舎が建ち並び、山伏の庵は坊舎の近くに設けられました。山上には本堂をはじめとする数多くの堂社が建ち並んでいました。資料18頁から19頁に山上の堂社を紹介しています。本堂は5間に9間で、内陣に十一面観音と毘沙門天と不動明王が祀られていて、外陣に慈恵大師と最栄読師の像が安置されていました。乙護(おとご)社があり、乙護像は8尺に1丈3尺の広さの仏殿で祀られ、拝殿が2間に3間です。役行者堂は3間に3間です。その他に不動小社、毘沙門小社、高砂明神小社、住吉明神小社、春日明神小社、伊勢の小社、十社明神の小社、天岩戸不動小社、八幡小社、上小社、田鶴浜小社、文殊堂、聖徳太子堂、郡浦明神小社、それから荒神小社、祓川水神小社、乙姫小社などが山上に並んでいました。本堂を始めとする多くの堂舎を守るために2間に6間半の番屋があり、本堂から番屋への通い板橋がありました。

乙護法について

パワーポイントで乙護社に祀られていました乙護法の写真を紹介します。資料38頁にも載せています。室町時代の作で像高が140cm余りあります。この乙護法は明治23年(1890)に出来た山上本堂に祀られていました。ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。現在は熊本県立美術館で保管されています。山上時代の年中法事次第という史料に二月に「乙護法講於万福院 廿八日」とあります。乙護法講は麓でも継続して行われていました。阿蘇一山は明治になって廃寺になりますが、衆徒及び行者さらに山伏であったお宅に乙護法が大事に保存されています。像の大きさは60余cmから30cm内外です。乙護法信仰は阿蘇の他、肥後各地に広がっていましたが、現在は信仰が途絶えて乙護法像が堂舎の片隅に横たわっていたりしています。

阿蘇郡誌』(阿蘇郡教育会 1926年)に坂梨の乙護法社由来が掲載されています。天正年間(1573〜92)、山上から長善坊契雅が落ち延びて、坂梨の大山寺に隠れていました。万福院配下の山伏行蔵坊が乙護法を背負って追いかけましたが、追っ手が迫り、崖(行蔵落しと言う)から身を投じました。坂梨の村人は堂を建てて行蔵坊が背負っていた乙護法を祀りはじめました。乙護法の堂に天和2年(1682)・安政3年(1856)・明治21年(1888)・大正2年(1913)・昭和32年(1958)に像の塗り替えなど行ったと記されていました。昨今の集中豪雨で堂が倒壊してしまいました。残念です。

乙護法は佐賀の背振山で修行した性空(910〜1007)と関係があると伝えられています。性空は背振山から播磨に行き、書写山に円教寺を開きました。性空に従って乙護法は播磨へ行きます。その後、背振山で修行した性空の甥・皇慶(977〜1049)に仕えたそうです。乙護法と縁がある佐賀には乙護法像が残っていません。40数年前、佐賀で乙護法の研究を続けておられた鈴谷正男先生は度々、西巌殿寺の鷲岡住職を尋ねてみえていました。乙護法研究の大先達です。

細川藩の祈祷

細川藩になりますと、阿蘇一山は公儀祈祷と太守祈祷を命じられます。公儀祈祷は徳川将軍に対する武運長久と延命の祈祷です。宮地の阿蘇社と黒川麓坊中の二カ所に名代が派遣されました。正月・五月・九月の朔日から三日間、麓坊中阿蘇山上で行いました。細川藩主への太守祈祷は城の本丸で、阿蘇社と藤崎宮の両社が交代で正月・五月・九月に執行しました。細川藩が延宝9年(1681)に疫病が流行した時、阿蘇・藤崎・祇園の三社に疫病退散の祈祷を命じました。祈祷成就の御札を熊本その他在郷へ1000枚配りました。その配当は阿蘇社600枚(衆徒200枚・行者200枚・社方200枚)、藤崎宮300枚、祇園社100枚でした。衆徒と行者さらに阿蘇社の社方への配当枚数が同数である事は当時の状況を反映していると推測されます。

東叡山寛永寺末への移管

資料16頁に書いておりますが、衆徒と行者の対立は続き、細川藩主綱利は比叡山から東叡山寛永寺への阿蘇一山の本寺替えを願い出ます。寛永寺は徳川幕府の顧問として勢力を振るっていた天海が寛永2年(1625)に江戸忍岡に建立した寺です。綱利の願が聞き届けられて、阿蘇一山は承応2年(1653)に山門(比叡山)正覚院末寺から東叡山寛永寺末になります。なお、細川藩内の天台宗寺院はほとんどが山門末で、東叡山末は阿蘇一山と豊後久住の猪鹿狼寺の二ケ寺だけでした。

学頭坊の設置

衆徒と行者の対立に加えて衆徒間の対立も続き、細川藩主綱利は貞享4年(1687)に比叡山東塔南谷の禅林院大僧都舜敬法印を学頭坊職として招き、100石加増します。以後、学頭坊は阿蘇一山の衆頂として坊中の管理・運営にあたります。資料16頁から17頁に学頭坊舎について書いております。総門・閻魔堂・乙護法堂・稲荷天神社・本門(薬医門)・五龍水神・鎮守堂・護摩堂(1間に9尺の廊下)・客殿(3尺に6間の庇付)・仏間・玄関・居間(庇付)・客殿取合・茶間(2尺に5間の板庇)・台所・長屋(2間半に10間:家来が住んでいたと思います)何れも茅葺です。現在の西巌殿寺がかつての学頭坊跡ですが、その当時はもっと広い敷地であったことが想像できます。

坊中の人口(安永3年・1774年)

資料18ページをご覧下さい。安永3年(1774)に坊中に住んでいた人数を掲げています。

区分 合計人数 内訳
学頭坊 57人(男女) 出家4人・山伏3人・家来家族(男27人・女23人)
衆徒19坊(学頭坊除く) 372人(男女) 出家27人・山伏30人・家来家族(男170人・女150人)
行者17坊 239人(男女) 出家21人・山伏20人・家来家族(男180人・女80人)
総人数 668人 出家52人・山伏43人・家来家族573人

幕末に国学者木原楯臣(文化12=1805〜慶應4年=1868)が著した「蘇渓温故」には衆徒行者37坊、山伏31庵(衆徒方山伏18庵・行者方山伏13庵)と書かれています。

墓地について

衆徒の墓は西巌殿寺から山上に行く道路の右にあります。「坊中六十六部墓」通称、「六部墓」と呼ばれています。名称の由来は六十六国の霊場に書写した法華経を奉納・廻国中の常陸国出身の法印が宝永3年(1706)に亡くなり、丹波国の廻国法印が弔いに墓を建てた事に由来しています。墓地の入口にあります。衆徒の各坊は明治4年(1871)の廃寺後、坊舎の敷地内に葬られていた墓を改葬してロクブ墓に移しています。坊別に亡くなった年月の古い順に並んでいます。

衆徒方の山伏の墓は踊山神社からの登山道にあります。ヤンボシ墓と呼ばれています。が建っていて表に「山上坊中万靈供養塔」と、裏に文政7年(1824)に学頭坊弘解の命によって、衆徒方修験中で改葬したと刻まれています。福蔵坊・金光坊・鏡仙坊・頼現坊・実相坊・仙行坊・善了坊その他で多くの山伏の墓があり、山伏の名前毎に並んでいます。文政7年以後も葬られています。明治以降の墓もあります。明治24年(1891)に亡くなった福蔵坊長勤和尚も葬られています。

行者と山伏の墓は天神山にあります。国道57号の建設に伴って元の位置を動かされた墓石もあるそうです。なお、踊山神社の近くにもあります。


第三部:峰入り修行


阿蘇山の「峰入り(みねいり)」は行者と山伏が行います。資料20頁から23頁にかけて峰入りについて書いています。山上時代の峰入りの記録は残っていません。永享3年(1432)に阿蘇大宮司惟郷から国家繁栄を祈って峰入りを行う事・衆徒に仕える山伏も峰入りは行者の支配に従う事と申し付けられています。麓(ふもと)坊中になってからは峰入りの記録があります。峰入りは山上時代には春峰・夏峰・秋峰の3回行われていたが、麓になって秋峰のみになったと文化14年(1817)の峰入り記録に記されています。

元和2年(1616)に始まって、峰入りを数年おきに行っていましたが、宝永7年(1710)を最後に中断してしまったようです。阿蘇山は先述しましたが、承応2年(1653)に東叡山寛永寺末になりました。寛永寺から享保9年(1724)に峰入り修行をすべきという定書が出されました。その後、ようやく6年後、享保15年に峰入りを再開しました。その折の峰入りの記録は残っておりません。峰入りの記録は寛政12年(1800)・文化14年(1817)――この時の峰入りには学頭坊が同行しています――文政12年(1829)・万延元年(1860)・文久2年(1862)とあります。幕末まで峰入りは続いていた様です。

峰入りの組織と役職

峰入り参加者は50人前後で、三組に分かれて行者の指揮に山伏は従います。「大宿」・「一﨟(いちろう)」・「大越家」と呼ばれる行者が一番手で、全体のリーーです。「二宿」・「二﨟」・「中越家」と呼ばれる行者が二番手、三番手は「三宿」・「三﨟」・「護摩先達」と呼ばれます。山伏はこの三組に分かれて峰入りします。麓坊中での一番古い峰入りの記録として残っているのは元和2年(1616)です。全体の取りまとめ役の大越家は那羅延坊、中越家は慈眼坊、三宿は了忍坊です。山伏は行者の指示に従い、初めて峰入りの参加者は「新客(しんきゃく)」と呼ばれ、3回以上峰入りしたら、「先達(せんだつ)」となります。峰入りは天下泰平・五穀豊穣・子孫繁栄・武運長久を祈って行われていました。細川藩は入峰費用として享保15年(1730)までは米30石寄付していましたが、その後は銭3貫目と米20石になりました。

峰入りの日程とコース

峰入りは7月29日を「駆け入り(かけいり)」と言って阿蘇山上から出て、9月3日に山上に帰り、「駆け出し」と言います。詳しい日程及びコースは資料の21頁から22頁をご覧下さい。

7月26日に「笈(おい)かざり」をします。笈には仏が納められています。笈仏と言います。27日に学頭坊と行者の長老に「暇乞い(いとまごい)」の挨拶をします。28日に山上に登り、役行者堂と本堂で勤行し、諸々の堂社を参拝します。29日は「駆け入り」で、峰入り修行が始まります。山から下って西に向かって進みます。平田村・住吉村という菊池郡の村々を通って山鹿大宮に参拝します。岩野村に進み、鏡観坊(きょうかんぼう)塚で参拝します。行者鏡観坊は峰入り半ばで亡くなったと伝えられています。現在、鏡観坊の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は山鹿市の指定文化財になっています。8月18日に「相良観音(あいらかんのん)」に参詣して、隈府へ出て、9月2日に「箱石峠(はこいしとうげ)」に進みます。箱石峠は高森に行く道の途中です。石組みがあり、私も見たことがあります。さらに日の尾峠から山上へ上って本堂で務めを終えて下山します。9月3日が「駆け出し」で、山上から降りて峰入りは終了します。

峰入りの道筋の村々では峰入り一行を迎える檀那がいます。観音堂があればそこで勤行します。私は波野村の「小池野」にあるお堂に文化14年(1817)の峰入りの御札が納まっているのを見ました。峰入りのコースで、古びたお堂があったら、覗かれたら峰入りの時に奉納した御札が残っているかもしれません。

日向・佐土原(さどわら)の修験の野田泉光院が『日本九峰修行日記』を書いています。文化10年(1813)に阿蘇に上り、衆徒成道坊の下山伏実相坊に峰入りのことを尋ねています。実相坊は「ごま修行の間、遠近参者無数」と答えたそうです。峰入りの道筋には大勢の人が峰入り一行を迎えてありがたいと拝んでいました。隈府町に豪商の嶋屋があり、「嶋屋日記」を書き続けています。明和7年(1770)8月朔日・寛政12年(1800)8月・嘉永2年(1849)8月朔日・万延元年(1860)8月2日の日記に峰入り一行を見物に行った事が書いてあります。嘉永2年には「天保9年より12年ぶり」、万延元年には「天保9年より24年ぶり」と書いています(資料23頁に紹介)。峰入りの一行を迎えるために多くの人が集まってきて、手を合わせて拝んでいた様子が想像されます。


第四部:阿蘇の伝説と信仰


御池参りと左京ケ橋の伝説

「御池(おいけ)参り」についてご紹介します。御池は噴火口のことです。御池に参拝する時、「左京ヶ橋(さきょうがばし)」を渡らなければなりませんでした。『肥後国誌』に「本堂ヨリ御池拝所マテ八町ノ間纔巖大石ノ間ヲ通ル左京橋アリ横幅四尺ハカリ長サ十一歩大石ヲ疊上テ其上ニ橋ヲ架タリ」と記述があります。

左京ケ橋について伝説が二つあります。

一説(『阿蘇郡誌』1926年刊):「左京何某(なにがし)」という若者が御池さん(噴火口)を拝み行き、橋を渡ろうとした時、橋のたもとに小さな蛇が出てきたので、左京が刀で切り捨てようとしたら、小さな蛇が大きな龍となって雲隠れした。左京は恐れおののき橋から墜落して落命した。以後、「左京ケ橋」と呼ばれる様になったという説です。

もう一説(『史料阿蘇 1』1978年刊):阿蘇開山の最栄が一字一石の写経をして埋めたから「写経ケ橋」と呼ばれる様になったと紹介しています。

お清一代の口説き

盆踊りの口説きに「お清一代」があります。熊本川尻の米屋の娘のお清が友人を誘って阿蘇参りに出かけます。左京ケ橋を渡る時、友達はスムーズに渡ることが出来ますが、お清は渡ることが出来ません。無理に渡ろうとしたら大蛇に変身してしまい、お清は身を投げて死んでしまいます。なぜ、彼女がこんな悲運な目に遭ったかというと、お清の両親は売る時は八合の枡を一升とし、買う時は一升二合の枡を一升とする二舛使いであったから、親の因果が子に及ぶと口説きます。

波野村で老若男女が盆になると、初盆の家を訪れて盆踊りをして回ります。初盆の家では縁側に遺影を飾り、家族で盆踊りの一行を饅頭やビールやお酒などで歓待します。現在も続いているかどうか分かりません。盆踊りの口説きの一つに「お清一代」がありました。赤仁田地区では「七拍子」と言っています。玉名では「地搗き音頭 お清口説き」として伝えられています。お清の母親は二枡使いで、父親は川舟船頭で人を殺して金を奪う非道な人物と歌い、友達は左京ケ橋を通るが、お清一人が通れないと嘆きます。小国の「お清口説き」では二枡使いの親の因果でお清は龍に変身してしまいます。阿蘇参りの信仰には左京ケ橋という関門が控えていると庶民の間で語り継がれていたのだと思います。


第五部:阿蘇参り・神仏分離と西巌殿寺の復興


(追加)春秋の彼岸と阿蘇参り

①春秋の彼岸に阿蘇噴火口参拝の阿蘇参りの人が大勢いました。参詣者目当てに商人達の小屋掛けも行われていました。衆徒成満院と万福院が宝永4年(1708)8月に小屋掛けの場所は山上時代、両院の元坊舎があった所で、以前迄は春・秋の彼岸の節、商人達は小屋掛けについて両院の指図を受けていた。その後、いつのまにか郡の役人が小屋割をする様になった。以前の様に両院が指図したいと願出ましたが、「願難し」と沙汰が出ました。

②『肥後国誌』に「春秋彼岸ノ翌日ハ必ス御池ヨリ水湧上リ、溢レテ山中高下ナク漲ルコト暫時ニシテ、又常ノ如シ、此参詣登山ノ不浄ヲ洗ハシムト云伝フ」と記述があります。

江戸時代の阿蘇参り

阿蘇参りは江戸時代に各地で行われていました。天保6年(1835)に「八町(はっちょう)」村(現・甲佐町)の若者18名が一人前9分、合わせて16匁2分の阿蘇講を行い、路銀として代表者が阿蘇参りに出かけています。元治元年(1864)に上土村(千丁村――現・八代市)の若者は路銀を借用して阿蘇参りに出かけます。米五俵代305匁に利子61匁を加えて366匁を借りています。一生に一度は阿蘇にお参りしたいという気持ちが若者たちの中にもあったことが窺われます。阿蘇参りは明治以後も続いています。ムラの人からお金を集めて、順番に代表者となって春か秋の彼岸に出かけます。山上阿蘇神社に参拝し、温泉宿で湯治をして、ムラに帰るとサカムカエの宴が開かれ、阿蘇参りは楽しみでした。現在は阿蘇神社の社務所で祈祷札をいただいて帰るというやり方になっています。

豪潮の宝篋印塔

西巌殿寺を出た左手に大きな宝篋印塔(ほうきょいんとう)があります。豪潮(ごうちょう・1749〜1835)という玉名出身の熊本を代表するお坊さんが文化2年(1805)に建立しました。豪潮は享和2年(1802)、8万4千基の宝篋印塔建立の大誓願を立て、17年間で全国に2千基余り建立しました。台座に「八萬亖千之内」と刻まれています。

西巌殿寺を出た登山道路の右側に石柱が立っています。正面に「阿蘇山上本堂」と、側面に「従是本堂六十五丁」と刻まれています。元の位置は違っていましたが、昭和6年、坊中からの自動車道路が開通した時に移動されたそうです。

明治維新と神仏分離

江戸幕府が倒れ、維新政府は神仏分離・国家神道の政策を進めます。資料26頁に神仏分離の流れを書いております。参考にご覧ください。阿蘇社の阿蘇惟治は衆徒・行者を配下の神職にしようとします。しかし、細川藩の寺社奉行が学頭坊以下の阿蘇山の取り扱いを行い、衆徒は僧業の継続を希望しました。行者は神勤を希望し、明治3年(1870)8月、山上新社家になりますが、翌明治4年5月に社家制度は廃止されました。

明治4年7月に廃藩置県によって、阿蘇一山は廃寺となります。阿蘇山上から本堂・山王堂・乙護堂は麓の衆徒御祈祷所跡に移されました。坊中の人々が解体して柱を一本ずつ担いで、山上から麓へ運んだそうです。大変な作業だったと思います。山上から降ろされた時、本堂は西側杉林の中に東向きに立っていました。夏目漱石が、「石段は見えるが、あれは寺かな、本堂も何もないぜ」という言葉を『二百十日』の中に残しております。その後、本堂は大正時代に北向きに移築されました。残念ながら2001年9月22日夜、火事によりこの本堂は焼失しました。

廃寺となった時、成満院弘英が「跡寺家敷戸長ヨリ入札売三拾二貫目、黒川組村備ニ相成候」と書き残しています。今はありませんが、成満院の跡は町立阿蘇病院が建っていました。私は坊中を調査する時に西巌殿寺に駐車させて頂きましたが、時々は町立病院の駐車場を利用しておりました。

西巌殿寺の復興

阿蘇一山が廃寺となり、坊中に住む人々は近くに寺がなくなり、葬式など困った状態になりました。寺探しをして、明治9年(1876)に葦北郡田浦の法雲寺の野坂帰水住職が迎えられます。野坂住職の在住は短く、同年、筑後から厨亮俊が後任の住職になります。翌10年に西南戦争が起こり、厨住職は官軍に味方したとして薩摩軍に捕らえられて4月11日に処刑されます。その後、佐々晃道(元学頭坊光徹)が住職になります。法雲寺の寺号を阿蘇一山の総寺号・西巌殿寺に改めたいという黒川村の人々の願が明治13年(1880)に許可されました。さらに明治23年(1890)に阿蘇山上に本堂が建てられ、乙護さんも祀られました。

ここ坊中は長い歴史があって、西巌殿寺は地域の人たちが支えてきたということを時折、思い出していただきたいと思います。早口で、駆け足で紹介いたしましたが、これで終わらせていただきます。


年表:阿蘇坊中の歴史

年代 出来事
581〜681年 隋の時代。『隋書』倭国伝に阿蘇山が記録される
1046年 阿蘇大宮司惟行が笠忠久を天宮祝に任命
1144年 最栄が阿蘇大宮司友隆の許可を得て阿蘇山に居住(別説)
1195年 建久6年。北条時政が衆徒と天宮祝の争いに沙汰
1321年 元亨元年。菊池・合志からの御初米が衆徒の衣装料とされる
1337年 延元2年。後醍醐天皇が衆徒宛に祈祷を依頼
1352年 正平7年。10歳以上60歳未満の女性の止宿禁止令
1362年 正平17年。本堂造営の最古の史料
1431年 永享3年。阿蘇社規式が定められる
1472年 文明4年。菊池重朝の主導で本堂造営
1478年 文明10年。鹿渡橋が洪水で落橋。文明13年に再興
1556年 弘治2年。山上に逆修碑が残される
1578年 天正6年。日向耳川の戦いで大友氏が島津氏に敗れる
1587年 天正15年。豊臣秀吉が九州平定
1587年 天正15年。阿蘇山上の衆徒・行者・山伏が山を下る(古坊中の終焉)
1598年 慶長3年。豊臣秀吉死去
1599年 慶長4年。加藤清正が麓坊中復興を命じる
1613年 慶長18年。幕府が「修験道法度」を出す
1616年 元和2年。麓坊中での最初の峰入り記録
1633年 寛永10年。細川氏寺社奉行による寺領配分の史料
1637年 寛永14年。天草・島原の乱。長善坊宛に祈祷依頼
1653年 承応2年。阿蘇一山が東叡山寛永寺末となる
1675年 延宝3年。衆徒得善坊が復興の苦労を書き留める
1681年 延宝9年。細川藩が疫病退散の祈祷を命じる
1687年 貞享4年。学頭坊設置
1706年 宝永3年。常陸国出身の法印が亡くなり「六部墓」の名称の由来となる
1710年 宝永7年。峰入りが一時中断
1724年 享保9年。寛永寺から峰入り修行を促す定書
1730年 享保15年。峰入りを再開
1774年 安永3年。坊中の人口668人(記録)
1800年 寛政12年。峰入り記録
1817年 文化14年。峰入り記録(学頭坊同行)
1860年 万延元年。峰入り記録
1862年 文久2年。峰入り記録
1870年 明治3年。行者が山上新社家となる
1871年 明治4年。廃藩置県により阿蘇一山廃寺。本堂等を麓に移す
1876年 明治9年。法雲寺の野坂帰水住職が迎えられる
1877年 明治10年。西南戦争。厨住職が処刑される
1880年 明治13年。寺号を「西巌殿寺」に改称が許可される
1890年 明治23年。阿蘇山上に本堂が建立
1979年 熊本県文化課が発掘調査を予定するも、火山活動で中止
2001年 平成13年9月22日夜。本堂が火事で焼失

本記録は令和7年(2025)11月25日に阿蘇山西巌殿寺で開催された歴史講演会の録音内容をもとに作成しました。 主催:阿蘇カルデラーリズム推進協議会 協力:ASO碧水会

更新日: 2026-03-24 (火) 02:32:08 (1d)