概要
農地改革(のうちかいかく)とは、第二次世界大戦後の昭和20年(1945)から昭和25年(1950)にかけて日本全国で実施された、農地の所有制度を根本から組み替える改革です。 地主(じぬし)が多くの農地を所有し、小作人(こさくにん)が高額の小作料(こさくりょう)を納めて耕作する「寄生地主制(きせいじぬしせい)」を解体することを目的とし、国が地主から農地を強制的に買収して小作人に安価で売り渡しました。 改革は日本政府による第一次農地改革(昭和20年〈1945〉)と、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要求を受けて再設計された第二次農地改革(昭和21年〈1946〉以降)の二段階で進みました。 阿蘇地域においても坂梨(さかなし)村をはじめとする各村で農地の解放が実施され、村落社会の構造が大きく転換しました。 また阿蘇では、昭和22年(1947)の法改正によって牧野(ぼくや)が買収対象に加えられたことが、農地の解放と並ぶ重要な論点となりました。
法的根拠と実施の経緯
第一次農地改革(昭和20年〈1945〉)
農地改革は、GHQの指令によって始まったものではありません。 昭和20年(1945)11月22日、日本政府は閣議決定「農地制度改革ニ関スル件」を決定しました。 これは自作農創設の強化、小作料の金納化、市町村農地委員会の刷新を柱とするもので、この閣議決定に基づいて農地調整法(のうちちょうせいほう)(昭和13年〈1938〉制定)が改正されました。 これが第一次農地改革です(国立公文書館「日本のあゆみ」)。
GHQが農地改革について最初の意思表示を行ったのは、この閣議決定の後にあたる昭和20年(1945)12月9日の覚書(おぼえがき)「農地改革についての覚書」(SCAPIN-411)でした。 GHQは第一次農地改革を内容が不十分であるとして受け入れず、改革は第二次農地改革へ引き継がれることとなります(国立公文書館「日本のあゆみ」)。
第二次農地改革(昭和21年〈1946〉以降)
昭和21年(1946)10月21日、自作農創設特別措置法(じさくのうそうせつとくべつそちほう)(昭和21年法律第43号)が公布され、改正農地調整法とあわせて第二次農地改革の法的枠組みが整いました。 同法第1条は、耕作者の地位を安定させ、その労働の成果を公正に享受させるため、自作農(じさくのう)を急速かつ広汎に創設することを目的として掲げています(国立公文書館デジタルアーカイブ、御署名原本)。
政府が買収する農地は、同法第3条により次のように定められました。
- 不在地主(ふざいじぬし)がその市町村の区域外に所有する小作地は、すべて買収する
- 在村地主(ざいそんじぬし)が所有する小作地のうち、都府県で平均1町歩(ちょうぶ)(北海道は4町歩)を超える部分
- 小作地と自作地の合計が、都府県で平均3町歩(北海道は12町歩)を超える場合の、超過分の小作地
買収と売渡の実務は、地主・自作農・小作農の代表で構成される市町村農地委員会が買収計画を定めて進めました。 第1回の買収期日は昭和22年(1947)3月31日で、以後、買収期日を段階的に設定しながら昭和25年(1950)7月2日まで実施されました。
買収の基準日と対価
農地の買収は、原則として昭和20年(1945)11月23日現在の事実に基づいて行われました。 この日付は第一次農地改革の閣議決定の翌日にあたり、改革を見越した地主による農地の名義書き換えを防ぐ意味を持ちました。
買収の対価は法律で据え置かれ、戦後の激しいインフレーションのなかで実質的な価値を急速に失いました。 買収価格は10アール(1反)あたり田760円、畑450円で、当時のゴム長靴一足の価格(842円)にも満たない水準であったとされています(経済産業研究所〈RIETI〉コラム、山下一仁)。 このため農地を買収された地主の側からは、買収を違憲とする訴訟が相次ぎました。
全国的な実績
農地改革では、約252万戸の地主から、全農地の35パーセント・小作地の75パーセントにあたる約177万ヘクタールが強制的に買収されました。 財産税として物納された農地とあわせると、約194万ヘクタールが約420万戸の農家に売り渡されています(経済産業研究所〈RIETI〉コラム、山下一仁)。
小作地の割合も大きく変化しました。 農地改革前の昭和20年(1945)11月時点で、農地全体に占める小作地の割合は約46パーセントでした。 改革後の昭和25年(1950)8月時点では、この割合は約10パーセントにまで低下しています。
牧野の開放と阿蘇
阿蘇地域の農地改革を考えるうえで欠かせないのが、牧野(ぼくや)の開放です。 牧野とは、家畜の放牧または採草(さいそう)の目的に供される土地を指します。 阿蘇は全国有数の草原地帯であり、牧野の多くが集落による入会(いりあい)(共同利用)の形で管理されてきたため、牧野の扱いは阿蘇の農村にとって死活的な問題でした。
昭和22年(1947)10月14日、政府は「牧野の開放に関する件要綱」を閣議決定しました。 これに基づき、同年12月26日に自作農創設特別措置法が改正され(昭和22年法律第241号)、牧野が農地と並ぶ買収の対象に加えられました。 主な内容は次のとおりです(国立国会図書館「昭和前半期閣議決定等収載資料及び本文」、衆議院制定法律情報)。
- 不在地主が所有する小作牧野は、すべて買収する
- 在村地主が所有する小作牧野は、都府県で3町歩を超える部分を買収する
- 自作牧野は、農地と合計して都府県で平均5町歩を超える部分を買収する(保有限度は40町歩を超えない)
- 牧野の買収対価は、近傍類似の農地の対価の4割5分以内とする
- 買収した牧野は可能な限り自作農の創設に充てるが、分割が適当でない場合は共同利用の方途を講じる
一方で、買収の対象から除外される牧野も定められました。 市町村・財産区(ざいさんく)・農業協同組合が所有し、共同利用に供されている牧野は、原則として買収されないこととされています。 ただし、利用者の数に比べて不相当に広大な牧野については、一定面積を超える部分が買収の対象とされました。
この除外規定は、阿蘇に広がる入会牧野の帰趨(きすう)に関わる重要な制度的枠組みであったと考えられます。 なお、阿蘇郡内の各牧野に対してこの規定が具体的にどのように適用されたかについては、地域史料による確認が必要です。
阿蘇地域における農地改革
坂梨村の事例
坂梨(さかなし)村(現・阿蘇市一の宮町坂梨)の様子は、『昭和27年(1952)・坂梨村の現況』に記録されています。 同資料によれば、農地改革後の坂梨村における自作地および一部小作地の比率は90パーセントに達し、全国的な傾向と同様の推移を示しました。
さらに同資料には、次のような記述があります。
「農地改革により大部分の小作農が自作農として全面的に村の表面に浮かび上がってからは、村の勢力は殆ど農民の手に移り、その発言が村の運命を左右するに至った」
この記述は、農地改革が土地所有の変化にとどまらず、村落内の政治的・社会的な力関係にまで及んだことを示す地域史料として重要です。
自作農の台頭と農村の変化
昭和25年(1950)ごろになると、自作農の創設という改革の目的は各地で定着しました。 阿蘇地域でも農事研究会の結成や新しい農業技術の普及が進み、水稲(すいとう)の技術革新として保温折衷苗代(ほおんせっちゅうなわしろ)が広く採用されるようになりました。
改革後の課題
農地改革は村落社会に大きな変革をもたらした一方で、いくつかの課題も残しました。
経営規模の問題: 『昭和27年・坂梨村の現況』は「一町以下の農家数は42%、一町未満の農地では生計を得ることはできないものと思われる」と指摘しています。 昭和23年(1948)の農林省統計によれば、全国の農家の家計費は年13万4千円であったのに対し、農業所得は10万5千円にとどまり、不足分を農外収入で補填(ほてん)する経営実態が示されています。
小作料と税負担の変化: 農地改革後、小作料は現物納から金納へと切り替えられました。 地主への現物負担は軽減されましたが、戦後インフレーションによる生産資材の高騰は、米の販売量が少ない零細経営(れいさいけいえい)の農家に所得低下として及びました。 また、農地改革以前の小作料に代わって、公租公課(こうそこうか)(租税負担)が農家の重い負担となっていきます。
これらの課題に対応するため、土地生産性の向上が求められ、保温折衷苗代に代表される技術革新が農村へ普及していきました。
歴史的評価と限界
農地改革は、寄生地主制を事実上解体し、農村における土地所有の格差を大きく縮小させた改革として評価されています。 第二次世界大戦後、世界各地で農地改革が試みられながら多くが中途で頓挫(とんざ)したのに対し、日本では地主制がほぼ完全に解体された点が特徴とされます。
一方で、次のような限界も指摘されています。
- 買収の対象は農地と牧野に限られ、山林は対象外とされたため、山林を所有する旧地主の資産は残りました
- 創設された自作農の大半が1町歩に満たない零細経営であり、経営規模の狭小さがそのまま固定されました
- 農業だけでは家計を維持しにくい構造が残り、高度経済成長期における農業人口の減少と都市への人口流出の一因となったと指摘されています
このように、農地改革は農村の民主化に大きく寄与した改革であると同時に、その後の日本農業が抱える構造的な課題の出発点にもなったと考えられています。
よくある質問
Q. 農地改革はGHQの指令で始まったのですか? A. 改革の着手は日本政府側が先でした。昭和20年(1945)11月22日の閣議決定「農地制度改革ニ関スル件」に基づいて農地調整法が改正され(第一次農地改革)、GHQの覚書(SCAPIN-411)はその後の同年12月9日に出されています。ただしGHQはこの第一次改革を不十分として受け入れず、昭和21年(1946)の自作農創設特別措置法による第二次農地改革へと進みました(国立公文書館)。
Q. 農地改革でどれだけの農地が動きましたか? A. 約252万戸の地主から約177万ヘクタールが強制買収され、財産税の物納農地とあわせて約194万ヘクタールが約420万戸の農家に売り渡されました。農地に占める小作地の割合は、改革前の約46パーセントから改革後には約10パーセントへ低下しています。
Q. 阿蘇の草原(牧野)も農地改革の対象になったのですか? A. 昭和22年(1947)12月の自作農創設特別措置法改正により、牧野も買収の対象に加えられました。ただし、市町村・財産区・農業協同組合が所有し共同利用に供されている牧野は、原則として買収の対象から除外されています。阿蘇郡内での具体的な適用状況については、地域史料による確認が必要です。
Q. 阿蘇地域での農地改革はどのような様子でしたか? A. 坂梨村の記録『昭和27年・坂梨村の現況』によれば、改革後の自作地・一部小作地の比率は90パーセントとなりました。改革後は自作農の台頭により、村落の政治的・経済的な主体が地主から農民へと移行したことが記録されています。
Q. 農地改革後の農家経営はどうなりましたか? A. 自作農への転換は定着した一方で、1町歩以下の零細経営が多数を占め、農業所得だけでは家計を賄えない農家が少なくありませんでした。生産資材の高騰と公租公課の負担も課題となり、生産性の向上が急務となりました。
関連項目
参考文献
- 『昭和27年・坂梨村の現況』(坂梨村)
- 『阿蘇一の宮町史 戦後農業と町村合併』
- 自作農創設特別措置法(昭和21年法律第43号)御署名原本、国立公文書館デジタルアーカイブ
- 自作農創設特別措置法の一部を改正する法律(昭和22年法律第241号)、衆議院「制定法律情報」
- 「牧野の開放に関する件要綱」(昭和22年10月14日閣議決定)、国立国会図書館「昭和前半期閣議決定等収載資料及び本文」
- 国立公文書館「日本のあゆみ」昭和20年(1945)12月 第1次農地改革
- 山下一仁「農地改革の真相」経済産業研究所(RIETI)コラム