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文化・歴史

西巖殿寺

概要

西巌殿寺(さいがんでんじ)は、熊本県阿蘇市黒川(くろかわ)にある天台宗の寺院です。山号(さんごう)は阿蘇山、本尊(ほんぞん)は十一面観音(じゅういちめんかんのん)で、奈良時代にさかのぼる開創伝承を持つ九州屈指(くっし)の古刹(こさつ)とされています。寺号は、僧・最栄読師(さいえいとくし)が阿蘇山の火口の西にある巌殿(いわどの)に十一面観音を安置して祀ったことに由来すると伝えられています。

由来・起源

現在に伝わる記録では、西巌殿寺の開創について二つの説が語られています。

一つは、神亀(じんき)3年(726)、天竺(てんじく)舎衛国(しゃえいこく)から渡来した最栄という僧が、阿蘇山上にのぼり十一面観音像を彫り、火口の西の巌殿に安置して祀ったとする説です。

もう一つは、天養(てんよう)元年(1144)、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の慈恵大師(じえだいし)良源(りょうげん)の法流(ほうりゅう)を継ぐ最栄という僧が、阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)の許しを得て阿蘇山上にのぼり、十一面観世音(じゅういちめんかんぜおん)を刻んで火口の西の巌殿(現在の山上本堂の跡地)で常に法華経(ほけきょう)を読誦(どくじゅ)していたとする説です。

年代の異なる二つの説が共存する理由は判然としていませんが、両説に共通するのは、絶えず経文(きょうもん)を読み続けたことから最栄が「最栄読師」と呼ばれ、その庵(いおり)の所在地にちなんで「西巌殿寺」の寺号が生まれたという伝承です。

歴史的経緯

古代・中世

最栄が阿蘇山上に草庵(そうあん)を開いて以降、多くの修行僧や修験者(しゅげんじゃ)がこの地に集まり、坊舎(ぼうしゃ)と庵が次々に建てられました。最盛期には衆徒(しゅと)20坊、行者(ぎょうじゃ)17坊、庵51の合計88の寺庵(じあん)が営まれ、現在の草千里(くさせんり)ヶ浜(はま)から中岳(なかだけ)火口にかけての一帯(古坊中(ふるぼうちゅう))に、九州でも有数の霊場(れいじょう)が形成されました。西巌殿寺とは、本来これら本堂と坊・庵をまとめた総称でした。

ところが天正(てんしょう)年間(1573~1592)、島津(しまづ)氏と大友(おおとも)氏の抗争が阿蘇山一帯にも及び、山上の寺院群は軍勢によって焼き払われたと伝えられています。僧侶や山伏(やまぶし)たちは行き場を失って四散し、草原の中に僧房の礎石(そせき)と基塔(きとう)のみを残す姿となりました。

近世(江戸時代)

慶長(けいちょう)4年(1599)、肥後(ひご)の国主となった加藤清正(かとうきよまさ)は、離散していた僧徒(そうと)を呼び戻し、山上本堂を修復するとともに、麓(ふもと)の黒川村(現在の阿蘇市黒川)に三十六坊(さんじゅうろくぼう)を復興させました。この地は「麓坊中(ふもとぼうちゅう)」と呼ばれるようになり、対応して山上の旧地は「古坊中」と呼び分けられるようになりました。再興には長善坊(ちょうぜんぼう)契雅(けいが)という法師の尽力が大きかったと伝えられています。その後、熊本藩主が細川(ほそかわ)家に代わってからも寺領(じりょう)は安堵(あんど)され、江戸時代を通じて「阿蘇講(あそこう)」と呼ばれる参詣(さんけい)や修験道体験、牛王法印(ごおうほういん)の札(ふだ)の頒布(はんぷ)などで賑わいました。

麓坊中の繁栄を描いた絵図

近代以降

明治元年(1868)の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)により寺領の保護がなくなり、長く続いた宗都(しゅうと)は衰退しました。明治4年(1871)、山上本堂は麓坊中の学頭坊(がくとうぼう)跡に移され、明治7年(1874)に学頭坊が正式に西巌殿寺(麓本堂(ふもとほんどう))となることで法灯(ほうとう)が継承されました。山上に残された旧地は荒廃しましたが、明治22年(1889)、麓坊中の関係者や有志の尽力によって山上本堂(奥之院(おくのいん))が再建されました。

平成13年(2001)9月22日、麓本堂は不審火(ふしんび)により全焼し、当時熊本県指定重要文化財であった仏像7体を含む貴重な文化財とともに焼失しました。現在、麓本堂の跡地には礎石のみが残り、跡地周辺には阿蘇檜(あそひのき)や公孫樹(いちょう)の古木が茂っています。

平成28年(2016)の熊本地震と、これに続く阿蘇山中岳の噴火・台風の被害により、山上本堂(奥之院)の建物も大きく損壊しました。老朽化していた部材の多くが再利用できない状態となったため解体され、新たに建て替えられることになりました。工事は令和3年(2021)10月の中岳噴火による立入規制などで一時中断しましたが、令和4年(2022)8月に完成し、同年9月17日に奉告法要(ほうこくほうよう)が営まれています。

現在の状況

西巌殿寺には、国指定文化財2件、県指定文化財4件、市指定文化財8件が伝えられています(阿蘇市「指定文化財一覧」、2026年9月閲覧)。

国指定文化財は、書跡(しょせき)の紺紙金泥般若心経後奈良院宸翰(こんしこんでいはんにゃしんぎょうごならいんしんかん)1巻と、古文書の紙本墨書仏舎利渡状(しほんぼくしょぶっしゃりわたしじょう)1通(征西将軍(せいせいしょうぐん)懐良親王(かねよししんのう)の御筆(ごひつ))です。

県指定文化財には、絹本著色阿弥陀三尊来迎図(けんぽんちゃくしょくあみださんぞんらいごうず)1幅のほか、西巌殿寺僧房(そうぼう)の仏像3躯(木造阿弥陀如来坐像・木造大黒天半跏像・金銅製誕生釈迦仏立像)、西巌殿寺山上本堂の仏像4躯(木造十一面観音立像本尊・前立、木造毘沙門天立像、木造不動明王立像)、木造十一面観音坐像1躯が含まれます。

市指定文化財には、豪潮(ごうちょう)建立(こんりゅう)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)、役小角(えんのおづぬ)石像・男鬼(おに)・女鬼像、銅造五鈷杵(どうぞうごっこしょ)、紺紙金字般若心経(こんしきんじはんにゃしんぎょう)、細字(さいじ)法華経、西巌殿寺文書(さいがんでんじもんじょ)(22巻408通)などがあります。

このほか、恋人の聖地(こいびとのせいち)としても認定されており、毎年4月13日には「阿蘇山観音(かんのん)まつり」(招魂祭(しょうこんさい)とも呼ばれます)が営まれ、山伏装束(やまぶししょうぞく)を身につけた行者による火渡り(ひわたり)や湯立て(ゆだて)などの荒行(あらぎょう)が行われています。また、境内は夏目漱石(なつめそうせき)の小説『二百十日(にひゃくとおか)』の舞台としても知られています(国土交通省 地域観光資源の多言語解説文データベース)。

アクセス・参拝情報

所在地は熊本県阿蘇市黒川1114番地で、JR豊肥本線(ほうひほんせん)阿蘇駅から徒歩約5分です(2026年9月現在)。境内には駐車場が整備されています。拝観料・営業時間等の詳細は、参拝前に西巌殿寺公式サイト等で最新情報を確認することが推奨されます。

よくある質問

Q. 西巌殿寺の開創はいつですか? A. 神亀3年(726)とする説と、天養元年(1144)とする説の二つが伝えられています。いずれも僧・最栄読師が阿蘇山上に十一面観音を安置したことに由来するとされています。

Q. 「西巌殿寺」という寺号の由来は何ですか? A. 阿蘇山の火口の西にある巌殿(いわどの)に十一面観音を安置して祀ったことに由来すると伝えられています。

Q. 山上本堂(奥之院)は現在も参拝できますか? A. 平成28年(2016)の熊本地震と噴火被害により大きく損壊しましたが、令和4年(2022)8月に再建され、現在は新しい社殿で参拝できます。

Q. 麓本堂の建物は見学できますか? A. 麓本堂は平成13年(2001)の不審火により全焼し、現在は礎石のみが残っています。境内自体は見学が可能です。

関連項目

参考文献

  • 阿蘇市「指定文化財一覧」(阿蘇市公式サイト、2026年9月閲覧)
  • 『日本歴史地名大系』(平凡社)「西巌殿寺」の項
  • 西巌殿寺公式サイト「水子供養と火渡りの寺 阿蘇山西巌殿寺」寺歴ページ
  • 国土交通省 地域観光資源の多言語解説文データベース「西巌殿寺」「西巌殿寺周辺(麓坊中ジオサイト)」
  • 西日本新聞「阿蘇三条の西巌殿寺奥之院が再建 11日に記念イベント」(2022年12月8日)
  • 阿蘇インターネット放送局WebTV-アソ「西巌殿寺奥之院が完成 奉告法要」(2022年9月20日)
  • 熊本県公式熊本県教育旅行サイト「阿蘇山西巌殿寺
  • 熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト「西巌殿寺

麓坊中の繁栄を描いた絵図

更新日: 2011-08-26 (金) 00:00:00 (5501d)